テレビの普及

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NHK東京地区にテレビの放送が開始されたのは、昭和二十八年二月一日であった。当時テレビの価格は一四インチで約一七万円という高価なものであっただけに、その大衆化は遠い将来に思われた。事実当初の受信契約数は八六六戸にすぎなかったといわれる。ついで同年八月には民間テレビ局の放送も開始されたが、一部の識者は、このテレビ番組をみて〝電機紙芝居〟とか〝一億総白痴化〟などと酷評した。それにもかかわらず、その契約戸数はきわめて急速に増加し、翌二十九年三月には一万六七七九戸、三十三年三月には九〇万八七一〇戸にまで普及した。

 この間にあって、昭和二十九年、町村合併時の越谷町のテレビ受信現況は、二一戸であった。この内訳は、越ヶ谷が九戸、大沢が六戸、蒲生が二戸、桜井・増林・大袋・大相模各一戸となっていた。これが三十三年市制施行時のテレビ受信は五一三戸であり、総戸数八三九〇戸に対し六・一%に達していた。

 当時越谷は、テレビや電機器具の普及では県下でもトップクラスであったようで、三十三年十一月二十三日付の新聞には、〝越谷は文化都市、テレビと電気洗濯機が多い〟との見出しで、「東電越谷営業所では、この程管内の比較的多量に電気を使っている家庭六百四十八戸を対照にして、電気の文化生活抽出調査を行った。結果は、テレビのある家庭三百五十七戸五五%、電気洗濯機二百三十五戸三〇・六%、風呂場や井戸のポンプ使用百五十四戸二三%、電気釜八十一戸一二%、電気冷蔵庫五十一戸八%などで、これを県平均の統計と比較してみると、テレビと電気洗濯機の平均率が標準率より約一〇%程度高いということで、やっぱり越谷の文化程度は高いということになるとのことである」といっている。

 ともかくテレビの普及はその後急速に伸びを示し、三十六年には四四一三戸と全戸数の五〇%に達し、さらに三十七年には約五〇〇〇戸、三十八年には約八五〇〇戸、そして四十三年には、第41表にみられるごとく、カラーテレビを含めて、二万四六〇五戸、その普及率は総戸数の八〇%近くに達した。なおこのうちカラーテレビの普及は、四十三年に一七四二戸、五・七%であったのが、四十六年には二万〇一七五戸四五・六%に及んだ。カラーの普及もいかに急速であったかを知ることができる。

第41表 テレビの契約数とその率
年次 契約数 率(%)
43 24,605 79.6
44 28,125 79.0
45 31,541 79.0
46 34,987 79.1

 こうしたテレビの普及で大きな打撃をうけたのは、大衆の娯楽機関としてもっとも利用されていた映画館であった。越ヶ谷には五〇〇人を収容する越谷映画劇場と、東映越谷映画劇場の二館、また大沢には同じ収容人員を備えた東武劇場があったが、このうち大沢の東武劇場は、三十二年八月火災を機会に廃業した。もっとも大沢の東武劇場は建物も古く、新しく進出した越ヶ谷の映画館に観客を奪われた結果であったかもしれない。越ヶ谷の二館も、その後四十三年には、観客激減による経営不振から、映画上映を閉鎖し、スーパーマーケットに切替えている。