テレビの普及とともに、電話も急速に普及した。もともと越谷には昭和三十八年三月まで、自動式の電報電話局が設置されてなかったので、電話の加入等は郵便局の委託業務となっていた。このため電話加入の申込みが激増していたにもかかわらず、年々の増加数はきわて制限されていた。この電話施設の改善については、すでに三十二年、越谷町当局と商工会が、「工場誘致に真剣な努力を払っても、電話が引けないためにいつも行きづまりを来し、町発展上非常な障害となって居ります」としてこの抜本的な解決策として電信電話局の新設を強く要望していた。
しかしこれが実現をみたのは、前記のごとく三十八年三月のことであり、市外通話は「〇四八九」、市内局番は「六」から出発した。このときから第42表にみられるごとく、電話加入数は激増をみたが、それでも暫くは電話の供給が需用に追いつかなかったのは、以前とかわりなかった。なお四十七年度当時の公衆電話の設置数六三六台で、三十七年度の五二台にくらべると、実に一二倍強の増加となっている。こうした公衆電話の増大からも、市民生活面での都市化の模様がうかがえる。
年次 | 加入数 |
---|---|
年度 | 台 |
30 | 455 |
32 | 526 |
34 | 590 |
36 | 755 |
38 | 2,978 |
40 | 4,442 |
44 | 13,800 |
47 | 23,800 |