三月三日の上巳の節句(正確には節句は旧暦で行われたので、新暦ではおよそ四月のはじめに当る)は桃の節句とも称され、季節の折目を祝う行事が古くから行われていた。この桃の節句は、江戸時代になると、雛人形が飾られ、人形遊びが盛んになったので、女子の節句あるいは雛祭りとも呼ばれた。雛祭りが庶民の間にひろまり、きわめて一般的な行事となったのは、武士階級や大都市などの富裕な商人層などを除き、およそ江戸時代も後期からではないかといわれる。雛人形は当時高価なもので、自給自足経済を原則とした農村地域では容易に購入できなかったぜいたく品であったからである。
その後貨幣経済が全国的に浸透するようになると、地方でも経済力の豊かな家では女児の初節句を祝い、競って雛人形を購入して雛祭りを行うようになった。たとえば越ヶ谷本町内藤家の『記録』によると、天保十五年(一八四四)三月三日当時質屋と古着商を営んでいた内藤家では、女児の初節句に金五両一分と銭三二四文で三組雛と諸道具を購入、金二両一分と銭三五〇文で酒肴それに餅を振舞って雛祭りを祝ったと記されている。
三組雛とはどのようなものかつまびらかでないが、高価な雛であったのには違いない。そこでだれでも安直に購入できる一文雛というような内裏の着付雛や練雛、あるいは紙雛などが大量に製作されて盛んに売出された。こうして各地で産出された雛人形にはそれぞれに特色があり、今戸雛・鴻巣雛・佐野雛・水戸雛などと呼ばれ、独特な作風で人びとから愛玩された。
このうち著名な雛の一つに越ヶ谷で産出された「越ヶ谷雛」があげられる。有坂与太郎の『日本雛祭考』によると、越ヶ谷産出の雛は、安永年間(一七七二~八一)越ヶ谷新町の会田佐右衛門が、江戸の十軒店で雛の製法を修得し、帰郷後商品として生産されたのが初めといわれ、明治の初年頃には越ヶ谷町に越ヶ谷雛の卸問屋が五軒から六軒を数えたという。
一口に越ヶ谷雛といっても、幾通りかの種類があったようであるが、これらがどのような形のものか現物が残されてなかっただけに、従来知る人はいなかった。
ところが昭和五十二年二月、大沢の人形頭師山崎昭二の調査によって越ヶ谷雛の一種が秩父と東京都板橋区のある家に秘蔵されていることが確認された。このうち東京での所有者は板橋区常盤台の人形玩具研究所西沢豊水であることが判明、御好意により同氏所蔵の越ヶ谷雛を調査することができた。この雛は二〇センチメートル程の桐箱の中に、内裏・五人囃・三人仕丁が納められている三段雛で、きわめて雅趣に富んだ作品である。桐箱の製造は越ヶ谷地域で古くから行われており、その技術は江戸でも高く評価されていた。桐箱に納められている段雛は他に例はなく、おそらく越ヶ谷のものであったとみられ、江戸時代将軍家にも納入されたと伝える。この種のものは、高度の技術を要する製品だけに数多くは産出されなかったとみられるが、大正四年刊西沢笛畝の『雛百種』中に、この段雛のほか、内裏の一文雛と練雛が越ヶ谷雛として載せられている。したがってこの種のものが大量に生産されていたであろう。なお秩父に保存されている越ヶ谷雛は、同郡皆野町の小林家蒐集によるもので、残念なことに三人使丁と桐箱が欠けているが西沢家所蔵の段雛とほぼ同じ形態のものである。
現在流行の波にのって、七段八段というような巨大豪華な段雛が多く産出されているが、いづれも各地方の特色が消えて共通した製品になっているといわれる。しかし雅趣に豊み、しかも素朴で小さな雛の再現を望む人びとの声がないでもない(越ヶ谷雛に関しては一三九頁参照)。