資料の関係や頁数の制約で、本文に収録できなかった事項はきわめて多い。そこでこれを少しでも補うつもりで、昭和二十八年から同四十六年まで、なかでもいわゆる高度経済成長期を境とした越谷の変貌の一端を、新聞記事によってみようとしたのが次の資料である。
越ヶ谷水郷撮影案内
昭和二十八年六月二十三日 サンケイ写真新聞
都心からわずか四十分、水郷気分のあふれる越ヶ谷付近は豊富な被写体をもっているが、東武鉄道主催本社後援で写真コンクールが行われている。新しく決められたハイキング・コースはこの水郷風物誌を背景として作られたもの。
Aコース 元荒川の瓦曾根関枠を中心として、白鷺が水面を遊ぶ八条用水葛西用水がつくり出す水郷風物が面白く、越ヶ谷から最も近く約五粁の家族向きコース。
Bコース 逆川の根元の新方橋から古利根川を渡れば眼前に広々とした遊水が満々としてひらける。遊水地の中心である松伏領の昔ながらの渡船場付近は写欲をさそわずにはおかない。約十四粁コース。
Cコース 元荒川の土堤にそって鴨や白鷺の楽天地宮内庁御猟場があり、日光街道を少し行って左折すれば荒川ぞいに〆切橋、三野宮橋と水郷風影はつきない。約十七粁、東武浅草―越谷間住復割引百円(準急三十五分)。
もうカヤが入る 陽気に敏感な質屋さん
昭和二十八年八月二十九日 埼玉
越ヶ谷町営公益質屋の運転資金は百六十三万円(うち五十万円は県融資)現在貸出百二十八万六千三百円、口数にして二千五百十三口ある。世間の景気や陽気が一番敏感に響くのが質屋、ひと頃多かった書画骨とうの入質は最近は薬にしたくも見られない。その代り時計、写真機等がこれに代った、この二、三日朝晩肌寒いと思ったらもうカヤが入って来る、これとは反対に子供のセーターを急いで受出して行く者もある、質屋の利用者は陽気より一足先きです、と荒井主任は語っている。
越ヶ谷の秋祭り
昭和二十八年九月二十九日 毎日
越ヶ谷町の秋祭りは秋晴れに恵まれ二十八日から二日間豪華な絵巻を繰り展げている。
終戦の秋、底抜けの大騒ぎを行い、〝越ヶ谷のバカ祭り〟といわれただけに各町村めいめいのおそろい衣装で粋をこらし山車八台が全町を練り歩き初日は近在からの見物人で終夜までにぎわった。
柳町の造成
昭和二十八年十一月 埼玉日報
かつては県下の話題となった越ヶ谷、町裏の柳原埋立地は現在すでに数十戸の住宅が新築され、なお引続き発展振りを示しているがこのほど住民の総意により町名を柳町と定められた。これで越ヶ谷町は十七町内となった。柳町は水郷越ヶ谷の気分を満喫できる景勝の地で、道路や上下水道の整備ともなれば必ずや近くモデル町内となるはずである。
〝ドル獲得〟に大きな役割
春に包まれる越谷町の造花屋さん
昭和三十年一月二十二日 毎日
越谷町にある某造花屋さんの作業場は輸出用のダリヤ、ゼラニウム、水仙など百花一時に咲いたようなほのぼのとした春のふん囲気に包まれている。家庭工業として町内の婦人連の手内職につくられた四季の花々は造花屋さんで荷造りされ東京の問屋筋に送られた上、ニューヨークなどアメリカに輸出されてドル獲得に大きな役割を果している。
業者の話では「工賃は安いが年間を通じて需要があるので内職する人達に喜ばれている」という。来月初めには〝梅の花〟が海を渡り〝日本の春〟を宣伝する。
田植に消防車も一役
深刻な越谷町花田地区
昭和三十年六月二十九日 毎日
お百姓さんの嘆きをよそに降るかにみえて一向に降らぬ上に、青空までのぞかせぶりな梅雨に越谷町地内の元荒川、逆川は減水、花田、小林地区では田植えが出来ずに悲鳴をあげ、農家では揚水機をフルに動かして引水に大童だが、それでも逆川にたよる花田地区では約四十町歩が植付け不能となり、二十八日早朝から夕刻まで消防車二台が出動、ホースを二百メートルもつないで用水堀に引水したがこれでも水不足は解消せずますます深刻化している。
お会式にぎわう 大相模不動尊
昭和三十一年九月五日 毎日
関東三大不動の一つに数えられる南埼越谷町の大相模不動尊のお会式は四日行われた。豊年の前景気も手伝って近郷から押しかけた人達で大にぎわいだった。境内一パイにたちならぶナシ市の売行きも上々、お米の収穫をあて込んだ農機具展示会の前も黒山の人だかりで豊年の年にふさわしい農村の秋祭り風景が描かれた。
自衛隊で工事に着手
越谷の古利根架橋
昭和三十一年十月二十五日 朝日
越谷町向畑と北葛松伏村の古利根川架橋は自衛隊古河部隊員の手で二十二日から工事に着手した。隊員三〇名が泊りこみで約二十日間の予定で演習架橋するものだが、町当局としては予算百八十万円で普通より十日早く出来上り、二割近く予算が節約されることになるという。この橋は町村合併当時新方村長が越谷町と合併すれば実現すると村民に公約したものである。
芸術の都パリへの夢
篠田画伯地区民の協力で実現
昭和三十一年十一月十四日 埼玉
郷土が生んだ天才画家を美術の都パリへ遊学させようと、資金集めに奔走している美わしい話―。
話題の洋画家は篠田喜代志氏(三七)で、越谷町船戸(渡)生れ。現在浦和市別所に住い埼玉大学に教鞭をとっているが、独特の画風で日本洋画壇から注目されている人。氏はかねて〝より新たな画風〟を研究しようと芸術の都パリ遊学を計画したが、実現出来ず悩んでいた。これを知った画伯の恩師にあたる伊東新方地区公民館長は「郷土の生んだ英才画家をフランスに留学させ、宿願をかなえさせてやりたい」と地区関係者に呼かけているが、渡仏後援会の結成にまで発展、地区民あげてきょ金運動が繰展げられている。
この美しい郷土愛によって篠田さんは、郷土の期待を担って、来年三月フランスへ鹿島立ちを予定されている。
もうじき売れます
お正月の床の間に
昭和三十一年十二月六日 埼玉
ちかごろは生花も変ってきた。前衛派ともなれば木の根っ子はおろか、鉄くずや石ころまでが生花の材料となるそんなご時世だが、伝統は捨てきれないのだろうかお正月ともなればやっぱり床の間に葉ボタンがなければ気がすまないらしい。――というわけで、ことしもまた葉ボタンの出荷期が近づいてきた。
越谷郊外の生産地をのぞいてみるとクキもぐんと伸び葉も大きくふくらんで見事な生育振り、畑全体が白、黄、紫に彩られて美しい。春や夏のような華やかさはないが、いかにも正月らしい落ちついた美しさだ。手入れする娘さんの黒い上衣ともよく調和している。値段は昨年とほぼ同じ、しかし、品のよいものがよく売れるのは世の中が落ちついてきたためだろう。
皇后さま初のカモ猟
陛下とおそろいで楽しまる
昭和三十二年三月十一日 毎日
天皇、皇后両陛下は十日午前十一時宮内庁越谷カモ場へおいでになり、先着の皇太子さま、義宮、清宮、秩父、高松、三笠の各宮さまとカモ猟を楽しまれた。
皇后さまは初めてのカモ猟で獲物は一羽だったが、春色濃い芝生で旧皇族方の集り「菊栄会」の会員たちとご歓談ののち午後二時すぎお帰りになった。
この日越谷町では両陛下の御成りを知らぬ町民が多く、沿道の出迎えも案外静かだった。蒲生、大沢、カモ場前は小学生や農家の人たちが、折からの北風の中に列をつくってお出迎えしていた。
モモも花盛り
昭和三十二年四月十日 毎日
越谷地方ではいまモモの花が真っ盛り……ぱっと咲き出したさくらの花と美しさをきそい、ナタネ畑の黄色にはえて都内からのハイカーたちでにぎわっている。
野良仕事の手を休めてむつまじく語り合う母子の姿に、春風がそっと吹きぬけ農村ならではの桃源境を描き出している。
新版 越谷町産業巡り
桐箱製造では全国一
昭和三十二年四・五月 埼玉日報
旧大沢町を中心にして大袋、桜井村を一帯に越谷は桐箱産地で有名である。桐の小箱製造を深意とし農家の片手間または専業としていずれにしても家内工業、現在百二、三十軒の業者が年産約二億円(税務署推定)よく発達したものである。土地に桐材がないので福島、新潟あたりから原木を取寄せる。会津桐なども使われる。
文献によると明治十一年、当時桜井村間久里にいた構本豊吉氏が桐で小箱を作って市販したに始ったもので、その後ダイヤモンド歯磨の小箱を一手に引受けてから東京で有名になった(小箱の生産は江戸時代から著名であった)。
原材は手挽鋸でひいたが明治の末期に大沢三丁目に住む黒田平次郎氏が発動機を購入製材した。先覚者であった。桐と名のつく品物ならなんでもできる。現在タンス業者はわずか四軒だが、その他は商品券入れ、ネックレス入れ、メタル箱、タボ止め入れ、雛人形ケース、なんでもござれである。風呂敷箱、松魚節入れ、釣竿箱でもありとあらゆる桐の小箱が生産される。
最近のことである。大阪の某銀行から小切手箱二万個の注文があった。用途を尋ねて見るとこれが贈答用、しかも入学や進学の祝に大阪では小切手を使う。商品券は税金がかかるが小切手なら税金がかからない。あくまでも実利的な関西人の気持が判ったことがある。学校の裏門入学のお礼、案外こんなところにも越谷の桐の小箱がが役立っているのである。タンスでは川越、春日部に一歩を譲るが小箱の生産は日本一、技術も日本一だと業者たちは古い伝統を誇って自負している。
東映のロケ「霧の街」新方橋で行われる
昭和三十二年五月五日 産経
東映佐々木監督の天然色映画〝霧の街〟のロケが四日午前十時から南埼越谷町大吉の新方橋で行われた。
柳につつじ、満々とたたえた逆川、深川木場になぞらえた内川材木店と全ては天然色には絶好の場で深川芸者に紛する星美智子のアデ姿に見物人もみとれていた。
五十円温泉越谷に出現
昭和三十二年五二十六日 埼玉日報
百円温泉は時代の波に乗って結構農家方面では評判がよい。こんどこれに輪をかけた五十円温泉が越谷町へ出現しようとして町の話題になっている。計画者は東京足立区の人、越谷町蒲生国道へ敷地九百坪を買収した。これへ工費一千万をかけて豪華な浴場とともに舞台つきの大演芸場を設けようというもの。付近の農家はもちろんバスで東京から遊覧客を呼ぼうとの強い鼻息、さる十六日上棟式を終った。七月初旬開業だそうでこれができると越谷町に一つの名所がふえる。名称は地名をとって蒲生温泉ということに決定している。
さらに保菌者十四名
越谷大袋地区の赤痢
昭和三十二年六月二十一日 産経時事
春日部保健所では南埼越谷町大袋地区住民の一せい検便で二十日までにさらに十四名の赤痢保菌者を発見、これで同地区の保菌者は総計百四名に達した。
このため各農家で働き手が不足し田植などの作業が遅れている。
同地区の保菌者大量発見について川口同保健所長は「水の悪いのも一つの原因であるが熱が出たり、頭痛の容態がいま流行の感冒に似ているため風邪と混同され、放置されたのが大量にふえた原因ともみている」と述べている。
一等は一万三千五百匹
越谷のハエとりコンクール
昭和三十二年七月五日 埼玉
越谷町大沢公民館と小、中学校恒例のハエとりコンクールは六月中実施、一般も含めて六百五十名が参加、総数実に十八万二千二百匹を捕え焼殺したが捕獲順に次の四十二名を表彰する。
①一万三千五百匹尾川澄子(小五)②加藤豊(中二)相川恵可、山本まさ、白石富士雄(一般)③清水庄一、柴田知男、守屋健二、三浦忠雄、高岡万里子、山本和子、若林茂明④神田としえほか二十九名
新暦に統一を
越谷町長に陳情
昭和三十二年十一月二十日 朝日
越谷町の公民館長連協、婦人会、青年団、社会教育協議会、教育委員会などの連絡協議会では①農機具の発達から秋の農作業が早く終る②学校行事と社会行事の一致③一つの町で新年のあいさつがマチマチなのは不自然④全国的に新暦のお正月が多くなっているなどの理由で同町でも新暦、旧暦、月おくれなどいろいろになっているお正月を新暦に統一するよう連名で十九日大塚町長に陳情した。
歳末を呼ぶ〝武州ダルマ〟
昭和三十二年十一月二十一日 産経時事
赤と白のダンダラ模様を画いて、大小とりどりのダルマが初冬の日ざしをあびて美しい。〝武州ダルマ〟の特産地南埼越谷町大袋の農家では歳末を控え、ダルマ作りに余念がない。
〝市〟をまつ〝七転八起〟 読売
年の瀬のダルマ市で売られる武州ダルマの製造が特産地南埼越谷町大袋地区で始まった。ことしは米の取入れが遅れたためダルマづくりも十日ほど遅れ、勤労感謝の日が過ぎてから製造に入った。
暖かい農家の日だまりで赤いゴフンを塗り顔を書くとみるみるいかめしいダルマができあがり、景気変動の激しい時節だけに七転び八起きの縁起にあやかって一組二百五十円のダルマの売行きは上々の見通しに娘さんの表情も明るい。
越谷の特飲七軒も転業 十日限り
昭和三十三年三月 埼玉
埼葛福祉事務所の調べによると管内の越谷町大沢の赤線業者七軒は十日限りで廃業することを決めた。すでに転業した吉川、幸手、春日部を除いて、十日以後も残ると見られるのは岩槻市の二軒、菖蒲町の一軒だけとなった。同事務所の従業婦人指導員高田敏子さんの話では、従業婦の一番多い希望は、相手さえあれば結婚したいということで、これは全員の約半数、また決った人達の職種は家事手伝い四、看護婦見習い、おもちゃ工場の女工さん、派出婦、飲食店の女中さん各一となっている。
大にぎわいの寺橋水泳場
昭和三十三年八月十三日 読売
依然として三十度を越す猛暑に南埼越谷町の寺橋際の元荒川水泳場では、赤、黄、青と色とりどりの海水着の子供たちが安全サークルを設けた水泳場で暑さを忘れて元気にはねまわっている。
これは毎年水の犠牲の多いこの地方で、プールのない子供たちに水泳をさせてやろうと、青年団が設けた川の水泳場で、団員が交代で指導や監視を行っており、安心してまかせられると親たちからも感謝されている。
準備運動はもとより鐘を鳴らして休憩、泳ぎ時間を定めて統一を取っており、話を聞いて遠く岩槻、春日部方面からもときどき先生引率で泳ぎに来ている。
今月から週休制実施
越谷町の商店街
昭和三十三年九月十二日 東京
南埼越谷町の商店週休制は今月から本決りとなり、二十二日飲料店、魚店、二十五日青果物商、他業種は二十日に一斉休業を行っている。蒲生地区だけは二十二日全商店が一斉休業している。
三ヵ所が決壊 中川堤防
昭和三十三九月二十八日 東京
埼葛地区の被害は春日部市藤塚地先庄内古川堤防が二ヵ所十メートルにわたり決壊したが、応急処理でくいとめた。同市の浸水家屋床上三、床下百二十、北葛三郷村番匠免地内で中川堤防上の吉川―芝又県道が水に洗われて三ヵ所七十五メートルにわたり決壊した。吉川町の床下浸水家屋百五十、越谷町では床上四、床下三百二十戸、草加町では床上二十四、床下六百三十六戸、また松並木の松数本が倒れた。なお交通網の寸断のため、春日部高、同女子高も休校になった。
工員寮で六人焼死ぬ
越谷の既製服工場、重軽傷十人も出す
昭和三十三年十月三十日 朝日
三十日午前一時五十分ごろ埼玉県南埼玉郡越谷町越ヶ谷一六三二、十字屋テーラー株式会社越谷工場(本社東京都千代田区神田豊島町九)から出火、木造二階建二百二坪の工場と隣りの会社員田邨賢二さん、同谷内国造さん方の二むね計二百三十余坪を全焼した。同工場二階の工員寮に寄宿していた工員十六人のうち逃げ遅れた重原政治さん(五七)ら六人が焼け死んだほか六人が重傷、四人が軽傷を負った。負傷者は同町山口病院で手当しているが、二人は生命危篤。越谷署で原因を調べているが、同工場は既製服を作っており、犠牲者は全部他県から住込みで働きにきていた人たちである。
同工場は吉田稔工場長のほか工員五十五人、紳士服専門で損害は越谷署の調べでは約四百着の既製服を焼いたほか、ミシンなど機械類を含めて二千万円を越すものとみられる。本社の話では、建物は昭和十六年ごろ建てたもので、六年前に同社で買った。階下は工場、二階は寮にし、六畳間七つに十七人が寝起きしているが、正面には幅二メートル半の階段、裏手にも非常ハシゴがあり、なぜ逃げられなかったかと首をかしげている。
助かった鳥居茂さん(二七)の話「火事だ」という声で目をさましたときはドアまで煙に包まれていた。すぐ窓をあけ、同室の二人と一緒に軒先に出て、鉄の柱をつたわって降りた。階段から一階に降りようとした人は煙に巻かれて逃げ場を失ったようだ。前夜十時にアイロンの仕事を終り、午前零時ごろ階下に降りた同僚が異常なかったといっており、原因についてはまったく心当りはない。
▽死亡者 山形県上山市矢来 戸田広(二〇)福島県安達郡東和村木幡、武藤清子(二六) 秋田県仙北郡六郷町東根、高橋五郎(二八) 同工場内重原政治(五七) 高橋さんの子供利幸九ヵ月、岩手県花巻市小曾川 及川八重子(二七)=入院後死亡
▽重傷者 重原すみ(五五) 市村金次郎(三七) 高橋富子(二五) 田中満子(二〇) 高柳寅夫(二七) 田中秀雄(一七)
▽軽傷者 戸田忠雄(三〇) 島居茂(二七) 重原実(二四) 丹野久男(一八)
多いスピード出しすぎ
今月すでに四七件 越谷の事故現場付近
昭和三十三十一月十九日 毎日
十八日朝五時十五分ごろ越谷市大沢の国道で起こった死傷者二人を出した交通事故は、追突した茨城県猿島郡境町並木運輸会社関文雄運転手の居眠りによるもので、相手が止まっていた砂利満載のトラックのため、車の前部はメチャメチャに壊され、関運転手はその衝撃でドアが開き、外に放り出され顔に軽いケガをしただけで奇跡的に助かった。
この国道に沿った春日部、越谷、草加の三署の今月一日からの事故(十八日現在)は合計四十七件で死者六人、重体十一人、軽傷二十七人という記録破りで、昔の日光街道もいまでは魔の道路となっている。
この原因の大半が道路がよいためスピードの出し過ぎで、なかにはトラックで八十キロも出すという無法運転手もいる。
各署とも主として交通係が関係者の調書作成やら実地検証などにあたっているが、夜間は当直員となるため治安維持力もそがれるとあって、これからの歳末時の交通量激増にともなって事故もウナギ上りになるとみて頭を抱えている。
正月を呼ぶチューリップ
昭和三十三年十二月二十七日 読売
切花の産地として知られる越谷市東小林地区で新年の生け花に使われるチューリップの出荷がはじまった。
ことしは新潟から買入れた球根の質が悪く、出荷は例年よりやや遅れたが、それでもフレームの中は春を呼ぶチューリップのにおいでむせかえるほど。お値段は東京市場相場で黄色が一本三十五円、ほかが二十円程度。しかし暮がおしつまるにつれて値は上るという。
新飼育法へ
越谷の養鶏
昭和三十五年三月 朝日
越谷市を中心とした養鶏は全国的に有名で、バタリー式飼育法は遠く東北地方はじめ県外から多くの視察者をあつめているが、最近バタリー式からケージ式飼育法へ移ろうとする傾向である。ケージ式は、木製のバタリー式とちがって全部針金で作られ、一羽一区画に入る。バタリー飼育のふんは、細い横木の床の間からふん受けに入るようになっているため床の木が汚れ、卵もよごれる欠点があったが、ケージ式では、針金を通して直接コンクリートの床におちるようになっているため、卵もきれいだ。またバタリー式は三段になっているがケージ式は一段だから、同一羽数で三倍の場所をとり、経費も倍近くかかるが、清潔で鶏の健康にもよいという。
越谷養鶏農協組合員二百五十人のうち約一割が、この式に切りかえ、日に日に増加の傾向にある。
進出止まぬ住宅、工場
越谷、米五千俵分の農地消える
昭和三十七年一月十七日 朝日
越谷市の工業生産力は東武沿線随一といわれ三十六年度は六十三件の工場地目変換申請があり、一方住宅の申請も前年の二倍近い数字となった―。越谷市農業委員会が受付けた宅地変換の申請は七百四十四件、三十三ヘクタール、工場六十三件で三十四ヘクタール、三十五年度にくらべ住宅は約二倍、工場は三十五件の増、総面積で二十五ヘタタールの増加。
これを月別に見ると工場の申請の多かったのは六月の八件、七月の十三件で、あとは住宅は正月を前に十一月が最も多く百二十件、十二月にはいっても八十件の申請があった。
工場の申請は多少下火となったが、今春三月地下鉄が北越谷へ乗入れることと、越谷市大沢地区の宅地造成区画整理事業の着工などが東武沿線に宅地を求める人たちの目をひいて次々と越谷へ土地を求めている。同市のうち出羽、東小林、花田など、次々と新しい住宅がふえ、同委の調べだと、三十五、六の二年間につぶれた農地は百二・六ヘクタール、十アール当り、平均五俵とみて五千俵の米がとれなくなったかわり農家のふところには十アール平均百五十万円として十五億円以上の金がころがりこんだという。
また工場の設備投資も七十億を下るまいという。
悩まされる臭気と騒音(蒲生小)
のどを通らぬ弁当
昭和三十七年四月十七日 埼玉
越谷市の蒲生小学校(大徳重雄校長)を中心とした付近一帯は、地区内にある紙業工場からの臭気と四号国道を通る車の騒音に悩まされている。同市では「安全都市宣言」をしたばかりなので、宣言の趣旨に沿った対策が望まれる一方、県議会で継統審議となっている「公害防止条例」の具体化を期待する声が強い。
問題の工場は、四号国道の西方、蒲生小からは北西にあたる同市蒲生二七四〇にある小田原紙業。早期栽培用フレームに使う油紙を製造している。臭気は、紙に塗る油をカマに入れて煮る時と、油を塗った紙を乾操機にかけた時に、煙突から出た煙が風に乗ってあたりに漂う。油の原料にキリとか鯨など、動、植物性の原料をつかうので魚介類の腐敗したような悪臭が出て、食事どきなどは吐き気を催すことがあるという。
この悪臭がでる回数は、一定していないが、月に七、八回程度、連続してにおう場合と断続的な場合がある。同工場では、早期栽培用のフレームをつくっている関係上、夏ごろから四月いっぱいまでが仕事の最盛期で百ヘクタール分を生産している。それで悪臭がでるのは、その時期というわけで、秋の初めごろから、西風と北風の中間が吹く時がとくにひどい。
四号国道から東武線蒲生駅までは約二百メートル離れているが、眠っていた通勤者が、そのにおいで蒲生についたことに気付くというエピソードさえあり、数年前から問題になっていた。蒲生小では、このため弁当も食べられず、ノドをいためる生徒も出て、授業中ハンケチで鼻をおおうこともある。
また、国道に面した七教室(二年生と五年生)も車両の震動と騒音で授業にしばしば支障を起こしている。そこで同小では、PTA会長中井文次郎さんらがこれら二点の理由をあげて、校舎移転の請願を三月市議会に提出して承認を得た。同小では、国道沿いのいけがきが枯れ出しているので、越ヶ谷高有滝先生に原因調査してもらったところ、①ダンプなど国道を通過する車両の排気ガスによる②震動で根管がきれたこと③潜在的ホコリによるなどがわかっている。同国道の通過車両数は上り下りで一日一万八千九百八十八台程度である。
一方「公害防止条例」設置を二月定例会で見送った県議会では同条例を六月定例会で本決りとするべく継続審議中だが、その規制範囲をどこにおくかが焦点となっている。騒音、排液、じん芥は問題ないとしても、臭気については測定の標準根拠がなく、人的な被害がなければ対象とはなりにくい。臭気に対する感覚は個人差もあり、保健所で行政指導を徹底する以外にない。
しかし、静岡県では、臭気も規制範囲の中に含めており、工場誘致の盛んな本県でも、当然考慮されてよい点である。同紙業の場合、春日部保健所と越谷市衛生課で調査した時、有害ではないとの結論が出されており、また先月末、二十万円で換気の防臭機一台をとりつけるなど誠意をみせているが、臭気がなくなったわけではない。
小田原紙業・安田工場長の話 工場で働いている者は慣れているからよいが、一般の人たちにとってはかなりいやなにおいであることは確かです。極力くさみを押えることに努力しており、とくにこんご仕事の最盛期を迎えるおり、不満な点があれば、機会をみて直したい。
大塚市長の話 蒲生小事件は、不適格校舎なので、近く県教育局の調査で危険校舎に指定してもらい、国庫補助事業として改築あるいは移転を考えている。また「安全都市宣言」については、これも近く推進協議会ができるので、市民のために活用したい。
越谷電報電話局
新庁舎が完成
昭和三十八年一月十八日 毎日
越谷電報電話局(和田義一局長)は総工費一億九千万円で、越谷郵便局前に新築中だったが、鉄筋二階建千七百平方メートルの新庁舎が一年ぶりで完成、加入数は二千三百で三月三日午前零時から、自動式局として開局する。市外局番は「〇四八九」市内局番は「六」でいまの蒲生局も編入される。
元荒川などで数万尾
越谷 工場汚水か、魚浮く
昭和三十八年四月十二日 東京
去る三月中旬春日部市内古利根川の魚が全滅したのに続き、十一日には越谷市内を流れる元荒川、葛西、八条用水でもコイ、フナなどが浮き上がるという事件が起き、魚業関係者、釣り師をあわてさせている。
同日午前五時ごろ越谷市西方地内の吉川県道沿いの葛西用水に魚が浮いているのを通行人が見つけた。春日部保健所、市衛生課、東部魚業組合(朝田泰一組合長)で調査した結果、工場廃液によるとの見方が強く、被害は下流三キロに及び、中には長さ五十センチのコイも含め、魚種はフナ、ウナギ、ナマズ、タナゴ、モロコなど全種にわたり数万尾に達しているという。
保健所では現場から採取した水を県衛生研究所に、魚組では県水産試験場に送って分析を依頼したが、市衛生課では青酸などの劇薬物による疑いもあるとして付近の住民に浮いた魚は食べないよう広報車などを使って呼びかけた。
県東部地方では去る三月中旬、春日部市の八幡橋から赤沼橋までの約八キロにわたって工場廃液によって全滅状態となったのにつぐもの。元荒川では一昨年九月、工場廃液とみられる毒物によって魚が浮き上がった事件が二回起きている。
工場汚水で魚減る 元荒川が最もひどい
東部漁業協同組合 県に公害調査を請求
昭和三十八年十二月十四日 埼玉
いちぢるしい工場の進出で、公害問題が正面に押し出されてきたが、東部漁業協同組合(朝田泰一組合長)では、越谷市内の魚油工場から流れ出す廃液のため魚が減り、また網漁ができなくなったと、十三日県に対して「公害調査請求書」を提出、越谷市内元荒川八キロの状況を調べて善処してほしいと申し入れた。
越谷市内を流れる元荒川は、好釣り場として有名で多くのつり人に愛されている。しかし最近は工場排水が流れ込み、ことしもメッキ工場の廃液で大量の魚が浮くという事件が二回起きている。問題の魚油工場は、越谷市南荻島の〆切橋近くに昨年八月建設され魚のアラを煮て魚油を製造している。廃液は直接元荒川に放流されるため、〆切橋から吉川橋間八キロの河床に魚カスが沈殿し投網や四ツ手網は、これが網に付着するため使えなくなった。また汚水のため魚が繁殖せず、悪臭がついて食べられないという。
敷地買収が難航
越谷の駅前通り拡張工事
昭和四十一年一月二十三日 毎日
越谷市では新しい町づくりのため三十六年から五ヵ年計画で東武越谷駅前から旧国道、さらに新国道を縦断して元荒川べりに通ずる幅十六メートルの駅前道路工事に着手したが、家屋の立ちのきや買収などで難航、最終年度になってもまだ七〇パーセントしか進展せず、市当局はことし、さらに計画を三ヵ年延長するという苦しい立場に追い込まれている。
同路線の当初計画は総額八千四十万円、敷地約五千平方メートル、立ちのき家屋三十五戸、延長四百十七メートルとなっている。現在までに買収のすんだのは約四千平方メートル、二十七戸で数字の上では進んではいるが、残り分が商店などの多い武蔵野銀行西側地区だけに最も離関とされ、この取り扱いに苦しんでいる。
同地区は地価も駅に近いので三・三平方メートル当たり最高四十万円などといわれているだけに初めに算出した評価格では到底折り合いがつかずに悩んでいる。その上計画路線のなかに違法建築するという心ない市民もあって、市側を困らせるという事態も起きている。さらに現段階にいたるまでには家屋を移転せず市が立ちのき訴訟を起こすなどの問題も発生した。また売った地主からはあまりに時期が長かったために時期によって買収地価がまちまちなところから不平の声も上がっている。
新住居表示を実施
越谷市で八月一日から
昭和四十一年七月十九日 埼玉
越谷市では八月一日から越ヶ谷地区の新住居表示を実施する。実施区域は宮前を除く越ヶ谷と四丁野、瓦曾根の各一部で道路、水路などを境に区割りした。これまで住所を町名(大字)地番で表示したが、新住居表示は地番を使用しないで町内を街区に分割して街区番号をつけ、さらに一街区の周囲を十メートル間隔に区切って基礎をつけて表示する。市では二十五日ごろまでに自治会長を通じて新住居表示を各家庭に通知する。なおハガキで知人などに新住居表示を知らせる場合、郵便料は無料、新町名の町割りは次のとおり、
▽御殿町(旧御殿と元御殿の各一部)▽越ヶ谷本町(旧元御殿の一部、本町三丁目、袋町の一部、本町二丁目、四丁野道の一部)▽中町(旧第二準市街、本町一丁目、中町の一部、四丁野道の一部)▽越ヶ谷五丁目(旧音羽町、新道、袋町の一部、中町の一部)▽柳町(旧柳町、御殿の一部)▽越ヶ谷一丁目(旧新一の一部)▽越ヶ谷二丁目(旧新二、新一の一部)▽越ヶ谷三丁目(旧新三、新二の一部)▽越ヶ谷四丁目(河川敷き)▽弥生町(弥生町の一部)▽東柳田町(旧みどり町、東柳田、大作の一部、柳田の一部、瓦曾根の一部)▽元柳田町(旧柳田、瓦曾根の一部)▽赤山町五丁目(大作の一部、東柳田の一部)▽赤山町四丁目(大作、瓦曾根の各一部)▽赤山町六丁目(弥生町、大作の各一部)
東武特急とバスが衝突 越谷
死者四、重傷三、踏切でバスが立往生
昭和四十一年九月二十三日 朝日
二十二日午後六時二十五分ごろ、埼玉県越谷市赤山町の東武伊勢崎線越谷駅構内北方の無人踏切(警報機、自動開閉機付)で、越巻発越谷駅行東武バス=比護道孝運転手(二九)=の側面に、日光発浅草行上り特急「第二けごん」=正野隆二運転士(三八)=が衝突、バスは約百メートル引きずられて真二つに割れ、六両編成の電車は全部脱線、上下線とも不通になったが、同夜十一時すぎ下り線だけ開通した。このためバスの乗客三人と通行人一人計四人が死に、比護運転手と同乗客二人計三人が重傷、電車に乗っていた日光帰りの外人観光客五人とバスの乗客計十三人が軽傷を負い、それぞれ同市内の三病院に収容された。現場の踏切は幅五メートルしかなく、大型車同士のすれ違いもできない離所、越谷署の調べでは、下り電車が通過し開閉機があがったので、バスの比護運転手が踏切に乗入れたところ、前からトラックがはいってきてどちらも動きがとれなくなった。そのうちに警報機が鳴り出したので、バスは後退し、踏切の外へ逃れようとしたが、後に車が続いていて動けず、そこへ電車が突込んだらしい。
警報機が鳴りはじめたとき、バスの乗客約二十人のうち十人ぐらいがバスから降りて逃げたが、残った乗客は間に合わず、バスとともにふっ飛ばされた。
東武鉄道杉戸工場などの作業員五十人の手で同夜九時ごろから復旧作業が始ったが、石橋同社運転車両部長は「線路もへし曲っているので、復旧の見通しは立てにくいが、上りホーム西側に臨時の線路を敷くなどして開通にこぎつけたい」といっている。
バスの比護運転手は三十九年以来無事故だったが、山口病院で手当てを受けながら「助かって申しわけない」と繰返していた。
東武鉄道本社の調べでは、東武伊勢崎線は、先月まで一日上下で四百三十五本の電車が発着していたが、九月一日のダイヤ改正で、三十七本ふえ、合計四百七十二本になった。
事故の時刻の前後には、直前に午後六時二十二分三十秒に上り普通電車が、続いて同二十三分十秒に下り普通電車が現場を通過、二十五分通過の事故電車のあとは、二十七分三十秒に上下電車がそれぞれ通過することになっており、五分間に五本、平均一分一本のかなりの過密ダイヤ。
このため現場付近は〝あかずの踏切〟も多く沿線の人たちからは「何とかしてほしい」との声が以前からあがっていた。
「第二けごん」は東京都内から日光、鬼怒川方面への観光電車として東武鉄道が一日七往復、浅草―東武日光間(一三六キロ)を約一時間四十五分で運転しているもので、全線ノンストップと、栃木県内の下今市駅に停車する電車がある。「第二けごん」は下今市駅停車する特急。
同鉄道本社では、平常通りのスピードを出していれば現場近くでは時速九十キロ程度であった。と推定している。
乗客の話 バスが踏切にはいった直後開閉機がおりたようでした。バスがそのまま突切ればよかったのに止ってしまった。私は飛びおりて助かったが、おりた人も電車にはねられて大分けがをしたようです。
東武「せんげん台駅」
来月十五日から営業開始
昭和四十二年三月二十九日 朝日
春日部市大枝の公団武里団地の足を確保するため、同団地南端の越谷市上間久里地内に東武鉄道がつくっていた「せんげん台駅」が四月十五日から営業を始める。同駅は橋上駅で西口(団地側)と東口(四号国道側)が設けられる。この新駅には準急、営団地下鉄の直通電車などが停車、朝のラッシュ時にはほぼ五分間隔の運行になる。
同団地の人たちはこれまで団地北端の武里駅だけしか利用できなかったため、朝夕は東京方面への通勤客でひどく混乱していた。同団地は八月末に六千百十九戸の入居が終れば日本一の規模となるが、同駅の完成で、団地の足はほぼ確保できる。
また同駅の完成に伴い、東武鉄道と越谷市が共同で駅周辺の宅地造成、開発計画を進めている。当面、東武鉄道が同駅周辺に約十二万平方メートルの宅地を造成し、商店と住宅街を建設する予定だが、最終的には市が周辺約百万平方メートルを住居地域にして開発する計画だ。
銀行ラッシュの東武駅前通り
昭和四十二年五月十二日 朝日
越谷市に銀行街が誕生した。東武線越谷駅から同市役所前に通じる都市計画街路越谷駅前線沿いの一角。約十年前まではひなびた裏通りだったが、いまでは同市きってのメーンストリートへ――。
この発展、十年前に幅十六メートルの同駅前線が通ることが決ってから、まず三十九年に武蔵野銀行越谷支店が開店、四十三年協和銀行、四十五年三和銀行、住友銀行と大手銀行支店がそれぞれ店開き。六月には東海銀行が進出する。三菱銀行も支店用地を確保しているという。このほか一、二の大手銀行が話を進めているといわれる。
「銀行通り」。地元民はこう呼ぶようになった。かつてにぎやかだった同駅前から国道4号へ通じる県道停車場線はややさびれた。銀行通りの近くには大型スーパーマーケット、貸しビル、不動産取引店、各事務所、飲食店などもやってきた。通勤者もたくさんここを通るようになった。
地価は、あれよあれよというばかり暴騰。三・三平方メートル当り三十六年に二万円。四十二年三十万円。最近進出したある銀行は、二、三百万円で買ったとの話が伝わっている。
二十年前は幅二メートルくらいの農道が通っていただけ。付近は米も十分とれない湿田地帯。「変り方の早さにびっくりするほど」と地元民。
銀行ラッシュ。ねらいは土地成金、それに通勤者族。銀行としても体面を保つためには一等地に陣取っておく必要があるからだ。
東海銀行越谷支店開設準備委員室は「このへんが市の中心ですからね。魅力あるのですよ。うちは後発組ですが、切込む自信はもちろん。なんといっても越谷付近は発展するところですから」と話している。
越谷市会、新分野決まる
昭和四十二年五月十五日 毎日
革新系の進出がめざましかったが〝黒い霧〟は払い切れなかった。衆院選の選挙違反から議員総辞職に発展した越谷市議会の議員選は十四日投票、即日開票が行なわれた。〝出直し選挙〟〟と注目されていたが、初の婦人議員が共産党から踊り出たのをはじめ、社会党は公認五候補が全員当選、革新系は議席を一挙に三倍にした。しかし、違反を問われた四人の前議員も、農村部での支持が強く、三人が当選、四人の前議員のうち苦喫したのはわずか一人と〝現職〟の強みを発揮した。
行楽の日曜日とあって、有権者の出足はちょっと鈍り、投票率は七二・七四パーセント、しかし、女性が男性を約四パーセント上回るという関心の強さをみせた。
開票が行なわれた市立体育館は、約二百人の関係者が双眼鏡やメモを手につめかけ、熱気がこもっていた。
〝票の山〟はてきぱきと処理され、午後十時過ぎに当選一号が決まったのをはじめ、十五日午前一時ごろまでに三十人の新議員が決まった。
四十一人の候補者は十日間の運動中〝市政刷新〟に声を枯らし、社会、共産両党は、このムードに乗ったうえ、うまく票を分けて全員が当選、共産の婦人候補は堂々ベストテンにはいる健闘ぶり。
四人の〝黒い霧〟前議員も新人の攻撃にあい前半は伸び悩んだが、後半グングン得票、苦杯を喫したのは一人だけ。市民の強い批判も農村部の堅い地盤をゆるがすことはできなかったようだ。
公明党も二候補がゆうゆう当選した。
新議会の分野は、保守系無所属二二(前一一、新一〇、元一)社会五(前一、新四)共産一(新)公明二(前、新各一)となった。
順天堂精神医学研究所完成
昭和四十二年七月十日 東京
財団法人順天堂精神医学研究所が越谷市袋山五六〇に完成、このほど研究活動をはじめた。建て物は木造二階建て一千平方メートルで神経病理、精神生理研究室など研究室七つのほか脳波室、光、音刺激装置などが完備している。
近く隣接地に病院も併設し「精神衛生センター」とする予定だが、現代病といわれるノイローゼ、交通事故による脳障害など幅広い精神医学の研究、診断、治療を行う。
消えてゆく「太郎兵衛モチ」
昭和四十三年五月十日 朝日
五月の声を聞くと、越谷地方の早場米地帯ではいっせいに田植えが始る。だが、三百年余の歴史を持つ越谷市出羽特産のモチゴメ「太郎兵衛の鏡モチ、ネバリも強いし、味もよい。ちょうど二人の仲のよう」とまでうたわれ、かつては「献上米」として出羽一帯の水田を埋めていたのに、今年、苗代をつくったのは二軒だけ。米は、野菜、果実と違って銘柄では売れない。「反取が少ない」というだけの理由で太郎兵衛モチは消えていこうとしている。
越谷市農協出羽支所に残っている資料を見ると、慶長年間、出羽村大字四丁野の名主、会田太郎兵衛が、低地移植用として、早稲モチを改良してつくり出した。さらに元禄年間、大間野の中村某が沼田に移植して収穫を上げ「太郎兵衛モチ」の名を高めたとある。
出羽地区は低湿地帯。水はけが悪く、ちょっと雨が降ると、元荒川、綾瀬川がはんらんする水害常習地帯だった。だから台風前の九月下旬には、もう刈取らなければならない。
「太郎兵衛モチ」は湿地帯に強い早稲として普及、最盛期には、出羽一帯の五百五十ヘクタールの水田中五十ヘクタールをしめていたという。
このモチゴメの特色は、ふかしてモチにした時だ、腰が強く、ネバリがあり独特の甘味もある。
同農協出羽支所長大野義一さん(五八)は、子どものころを思い出していう。「ウドンといっしょににても、全然くずれない。堅くなっても、もう一度つき直せばネバリ、味など少しも変らないんですよ」
近郷近在はもとより、東京からも正月のモチ用にと、業者がはいり込んでくる。太郎兵衛モチの俵に旗を突剌した荷車が、列をなして、日光街道を進んだという。
「普通の米よりいい値がついてましたよ。出羽は、モチでイキついて、水害でやられ……なんてよくいわれたもんですよ」
しかし、昭和五、六年ごろから、苗代には、あまり見られなくなった。
草たけが百二、三十センチ(普通七十五~八十センチ)にもなるため、倒伏しやすい。五本植えて十本程度にしか分けつしないため穂数が少ない。病害虫に対して抵抗力がない――などから十アール当り三、四俵しか収穫がないなどから、次第に敬遠されたのだ。
低湿地独特の早稲……反収も少ないとあって評判になりながらも出羽地区以外には、普及しなかった。そして相次ぐ品種改良、食糧増産、多収穫の前に、味のいい「献上米」といった誇りも、いつとなく消えていった。
昭和二十三年ごろ「出羽特産の名前を残そう」と、同農協が音頭を取って、作付けを始めたが、米は政府買上げ、「銘柄」が良くても、ほかの米より高くは売れない。農家の収入になるのは味より量だ。普通の米は十アール当り八、九俵はとれる。四、五俵のモチ米を作る農家はだんだん消えていった。太郎兵衛モチは大量生産を支える米価制度の犠牲になった……。
現在、越谷市谷中の雨野正夫さん方で十アール、同市七左衛門の秋山要さんが五アール、それぞれ自家用としてつくっているだけだ。
十年前からつくっているという雨野さんは、「米粒は、細長く、黄かっ色で、見た目はよくないがふかすとまるで羽二重みたいで、ふかふかしてうまいねえー、一口食べれば、太郎兵衛はすぐわかる。しかし反当りの収穫が少ないから、農家はやっていけないよ」とあっさりいった。
降ヒョウ また農作物に大被害
昭和四十三年六月二十四日 毎日
四月三十日の降ヒョウで農作物に一億五千万円の被害を受けた越谷市で、二十二日夜、追打ちをかけるように出羽、荻島、大相模、大袋の四地区がまたヒョウに見舞われ、前回を上回る一億八千九百七十六万円という大打撃を受けた。
市農務課の調査によると一番被害のひどいのは水稲で、被害は三五〇ヘクタール、金額にして四千三百万円。ナス三五ヘクタール、三千四百六十万円、トマト一八ヘクタール、二千八百五十万円、キュウリ一八ヘクタール、二千七百十万円、ネギ二五ヘクタール、千五百五十万円、花一四ヘクタール、千八百九十万円などのほか、ハス、ナシ、モモが九百万円。
被害の大きい水稲は各地区とも葉がたたかれ、切断されている。トマト、キュウリ、ナスは出荷期にかちあっての被害で全滅の地区もあり、いま高値を呼んでいるだけに農民は「代作もきかないし泣くに泣けない」と相次ぐ天災を嘆いている。
被害は出羽地区(宮本、谷中、四丁野)荻島地区(長島、前谷、西新井、南荻島)大相模地区(西方)大袋地区(大林)がひどい。
宮本町にあるナシ園ではかけ袋がぬれた上にヒョウが降り、ピンポン玉大になった実がたたかれて落ちたり、キズがついて大きくなっても売物になりそうもない。
南荻島のナス畑は幹だけになり、実はキズだらけ、キュウリも同じで幹が根元から折れて枯れるのを待つばかり。
ある農家では三十分間の降ヒョウで五十万円が吹っ飛んだといっている。出羽特産のハス田も葉が細かくくだかれて幹だけが水面に出ているという無残な姿。
被害調査に当たっていた県農業改良普及員もナス畑でキズナスもぎりをする主婦に同情、幹のせん定を実地指導したり、消毒法を教えていた。
県は二十三日、対策会議を開き、各種補助金の交付や長期低利の融資、技術指導などの救済策について協議した。
家付きで先生勧誘
人口急増に悩む越谷市
昭和四十三年七月八日 読売
小、中学生がぐんぐんふえている各市町村共通の悩みは教員不足。とくに東部は、一昔前までは水田しかなかった新開地。適当な下宿もおいそれとはみつからない環境の悪さが、現代っ子教員にきらわれる。そこで、越谷市では「四畳半二間、水洗トイレ付き。低家賃」のキャッチ・フレーズで教員専用アパートを建設、勧誘作戦を展開することになった。
同市の場合、四十三年度小中学校の教員総数は四百四十七人。ところが、四十八年には小学生が一万四千四百人(四十二年度八千六百人)中学生が四千九百人(同三千四百人)に急増し、教員も倍の九百人が必要になる見込み。ここ数年、六十人近くの新規採用を予定しながら、よくても九割程度が採用できるだけ。将来の見通しは暗いわけだ。
〝教員マンション〟は同市北部の弥十郎地区に来春完成の予定。鉄筋四階、二十四室。家賃は月七千円だが、独身者は二人まで入居させ、一人三千五百円の軽い負担とする計画。千五十平方メートルの土地は確保。公立学校共済組合からの融資五千五百七十五万円で建設される。
シラコバト保護に
県と市が植樹運動
昭和四十三年七月十一日 毎日
「シラコバトのアパートづくりに協力して下さい」――県と越谷市では、宅地化や工場進出で年々住み家を追われている、国の天然記念物が県鳥に指定されているシラコバトが、安心して巣づくりが出来るように――と植樹運動を進めることになり、生息地区の住民に協力を呼びかけている。シラコバトはいま同市にある客内庁ご猟場を中心に半径四・五キロの範囲内に約五百羽ほどが生息しているが、昨年あたりから急激な都市化の影響で減少傾向にあり、効果が期待されている。
県では、シラコバトが多く生息している同市新方、桜井、大袋の農村地域が最近急激に宅地化され、さらに巣づくりする立木が切られるなど生活環境が次第に悪くなってきているため、初の試みとしてこの春サンゴ樹、杉、イヌマキなどの営巣樹千四百本を移植してシラコバトの新しいアパートをつくることになり、市に移植場所の選定を依頼してきた。
市ではこのため、関係地区の自治会長や農家から移植希望をとったが、いまのところ植樹希望は八ヵ所、三百四十本でこれに桜井、新方各小と北中に各五十本を植えても県が計画している本数にまだ遠い。
希望している八ヵ所には個人住宅が五軒あるが、五軒の民家の庭先やその周辺に巣づくりしているので、移植後の効果が期待されている。問題は残り分をどうするかだが、生息地以外に移植してもなんにもならないため、市では選挙が終ったので早急に自治会長らに第二次募集を呼びかけてもらい、一ヵ所でも多くかわいいシラコバトの住み家をつくりたい――と言っている。
シラコバトは現在五百羽前後生息していると推定されるが、なかでも百五十羽はいるといわれる弥十郎地区は住宅団地になるため、市教委でも生息地区の小・中生の家庭に訴えて市民の関心を高め、追われるシラコバトの保護に万全を期したい――と計画を練っている。
大沢小 日本一の給食優良校
昭和四十三年十一月八日 埼玉
越谷市立大沢小学校(鈴木重次校長、生徒数千二百八十人)が、このほど文部省からことしの全国学校給食優良校に選ばれた。栄養せっ取、食事作法、衛生管理の面で特にすぐれているというのが表彰の理由だが、そのウラには五人の給食ママさんのチームワークと努力、先生たちの熱心な〝給食教育〟があった。表彰決定を知った七日は、子供たちの大好きなうどんとフルーツサラダ。子供たちは〝埼玉一〟の給食をおいしそうに口にほうばっていた。
同校で学校給食が始まったのは三十六年三月。いまの五人の給食ママさんのうち、ちえさん(六三)と沢田みつこさん(四二)の二人は創設以来のベテラン。あとの石井玉子さん(四〇)萩野昌世さん(三〇)も六年のキャリアの持ち主。一番新しい森富りき子さん(二八)が二年目。みんな給食婦になる前は、いっかいの主婦だった。それだけに初めは甘いカレーライスができたり、マカロニが塩からになったりという失敗もあったそうだ。それでも「衛生管理」の面では気を使いすぎるほど注意したという。料理の材料に持ち込まれた食品のにおいをかいでみたり、まぜてみたりで綿密に〝点検〟。これまでにはおかしなサツマ揚げや変なにおいのクジラもあったという。また洗滌機と熱風消毒保管機をフル利用しての食器消毒。「味は心配でも、食中毒だけは絶対に気づかわねば……」と、責任者の中平さんは真剣なまなざし。
そのうえオリンピック日本サッカーチーム並みのチームワーク。おいしい給食ができるはずと、先生たちもおもわず目を細める。
その先生たちも食事作法など給食教育の面で熱心に努力した。お行儀の悪い生徒を注意するのはもちろん、研究会などもしばしば開いて話し合った。その成果のひとつが給食時間、黒板にカーテンをし、机を四形に向かい合わせ、真ん中に花をかざって食事する。勉強室から食堂へのイメージ・チェンジ。きらいな算数の授業のあとでは、せっかくの食事もうまくなかろう―と先生のアイデアから始まった。
郷土の画伯、斎藤・倉田遺作展
昭和四十四年二月二十日 東京
第六回県民ギャラリー「斎藤豊作・倉田白洋遺作展」が三月七日から十日間、埼玉会館で開かれる。
会場には、斎藤豊作の「祈冬」「残れる光」など十九点、倉田白洋の「煙突のある風景」「微雨」など四十五点の計六十四点が展示される。二人とも埼玉県が生んだ有名画家で、中央画壇で活躍した。
斎藤豊作は明治十三年越谷市に生まれ、大正三年有島生馬、梅原竜三郎らと「二科会」を創立した。大正三年フランス人と結婚、同八年フランスに渡って永住、昭和二十六年七十一歳で死去。作品は強い色彩、点描ふうのタッチによる印象派の影響を受けたもので当時の画壇で脚光を浴びた。しかしフランスに渡ってからはあまり描かず、これだけの作品を集めた今回の個展は初めてという。
倉田白洋は、明治十四年浦和市生まれ、大正十三年森田恒友らと「春陽会」を創立、数多くの個展を開き活躍した。昭和十三年、五十七歳で永眠。
越谷高卒業式 現代の教師像を批判
昭和四十四年三月十二日 東京
県立越谷高(飯島正幹校長)の卒業式で、卒業生代表が答辞の中で教師や国の文教政策を批判、列席した父兄をびっくりさせるというハプニングがあった。
まず最初に父兄を驚かせたのは、君が代斉唱のおりに出た「天皇制反対」というヤジ、続いて病気の飯島校長にかわってあいさつに立った吉川正就教頭に対する「ナンセンス」といったヤジ、そして卒業生の答辞となった。代表の女生徒は「先生は授業に出ても時間のたつのを待っているようなもので、職員室のドアは鉄のように冷たく感じられた」と現代の教師像を真正面から批判。さらには「二年になると進学、就職のコースに分離されて予備校化し、期待してはいった学園生活はむなしかった。人間性無視のゆがめられた教育環境の中で、生徒同士の討論も十分に許されず……」と国の文教政策批判にまで発展していった。
結びでは、教師と父兄への感謝のことばも添えたが、批判的なことばが出るたびに卒業生と在校生はやんやの拍手。「いいぞ」「がんばれ」といったヤジも乱れ飛んで、参列した父兄の一部は渋い顔だった。
同校では昨年まで、三年担当の教師が選んだ生徒が答辞を読んできたが、ことしは生徒会の要望から二月中旬選出した六人の起草委員が一ヵ月にわたり文案を検討してきた。
九日、全卒業生を集めて行われた予行でこの草案を披露したところ「父兄への感謝の気持ちが盛り込まれていない」などの反対意見が出て、二時間にわたり大衆討議、修正したという。
草刈り条例実施
昭和四十四年三月二十九日 読売
人口が急増している県東部では、地価の値上りを待って放置される土地が多く、雑草や枯れ草だらけのあき地は、衛生上、防犯上の大きな問題となっているが、これに音をあげた越谷、草加両市では、川口、大宮などで成果をあげている。
〝草刈り条例〟をそろって四月から実施することになった。越谷市は、さる二十五日の市議会で条例案を可決、草加市もきょう二十九日の議会最終日に可決する予定。越谷の場合、雑草が茂ったあき地は、市衛生課の話だと、ざっと百万平方メートル。ほとんどが値上りを待って売り借しんでいる人や投資の対象にしている人の土地で「九割九分は不在地主のようです」と同課ではいっている。草加でも同じ傾向だ。
条例の内容は大同小異で、①市長はあき地が危険な状態のとき、地主に雑草の措置について必要な指導、助言をする②これを守らなければ三十日以内に刈り取るよう命令③これも無視すれば行政代執行法による通告書を出し十日以内に履行しないと市がかわって刈り取る④草刈り機と除草剤を使い実費を地主から徴収する――など。草加市はこれを一歩進めて、川口同様、地主が希望すればあき地を市が管理し、駐車場や遊び場として使うことができる条項も入れている。また同市では「こうしたあき地が生まれるのは、農地転用したり、転売したあと放置しているため」として、草刈り条例の担当課を衛生課でなく産業経済課にし、行政指導の徹底をはかる。
新庁舎落成記念式
昭和四十四年六月九日 埼玉
越谷市制施行十周年と新庁舎落成記念式典は、八日午前十時から同市立体育館で関係者約千八百人を集めて開かれた。同式典では、市政功労者九百人が表彰された。
大型店進出に打撃受ける地元商店
昭和四十四年六月十四日 埼玉
このところ相ついで大型スーパーが進出している越谷市では、地元商店が深刻な営業不振になっている。洋服、クツから生鮮食料品店まで、ほとんどの商店が大きな影響をうけ、売り上げ高も三―五割の大幅ダウン。やっと一部の商店主が〝危機意識〟をもち、その対策に乗り出したが、その実現まではまだまだ。しかも大半の商店は、どうすればよいのかわからず、ただ不安と焦燥をつのらせるおけ。市や商工会にもこれといったビジョンはなく、当分の間、地元商店は冷たい風に吹きさらされそう。
同市には現在三軒の大型スーパーがある。このうち二軒は五月、六月にオープンした。各スーパーとも一日七千―一万人の客を集めてホクホク顔。新たに一軒が八月のオープンをめざして工事中。
地元商店は気がきでない。市や商工会も地元商店保護の策を練っている。十六日には、中小企業庁、中小企業振興団から、講師を呼んで「大型店の進出に伴う小売り店の進むべき道」という講演会を開く予定。だがこれも五月二十三日同じ趣旨の講演会を開いたが、参加人員十数人といったありさまだったため、あまり期待はもてない。
しかし〝責任〟は商店主にだけあるのではないようだ。市や商工会の打つ手が、その場限りのものに終り、確固たるビジョンを持ち合わせていないのも、商店主らの腰が上がらない原因のひとつ。「これからの商店はこうあるべきだ」という市独自の計画、商工会なりの考え方が、いまだ打ち出されていない。このため市が商店側に〝共同店舗方式〟など各種改革案を示しても、その将来性がわからない商店主には、不安でなかなか踏みきれないという事情もある。おそまきながら市としては、企画課が立案している〝総合振興計画〟の中で、今後の地元商店のあり方などを盛り込んでいくという。
自立心のない地元商店、ビジョンのない市、商工会の間で、大型スーパーだけが連日の大繁盛に笑っている。あるスーパー店主は「ウチは現在でなく将来を見越して乗り込んできた。計画に狂いがなければ、もっと繁盛するはず――」という。
またスーパーは、徹底した〝消費者は王様〟の商法を持ち込んだ。「売ってやる」のではなく、「買ってもらう」といった経営によって「アグラ商法」はもう通用しないことをあからさまに見せつけた。この辺にも地元商店の考えるところは多く、今後、根底からの変革を迫られそう。
越谷食肉センター完成
昭和四十四年六月二十二日 サンケイ
越谷市赤山町五、日本畜産興業会社(福田金八社長)が、同市増森、東部清掃事務所の近くに建設していた食肉センターが二十日、完成した。
同センターは、工費一億四千万円、鉄筋平屋建て六六〇〇平方メートルの畜殺場。公害防止のため、四〇〇トンの浄化槽がある。一日の処理能力は約五百頭で、県東部と東京都、千葉県西部の畜殺を扱う。畜殺費は検査料を含め、一頭四百五十円。
学校給食センターが完成
昭和四十四年八月十九日 朝日
越谷市が、同市増林城之上の市立東中学校北側に建てていた市立学校給食センターが完成。九月の新学期から給食をはじめる。
同センターは、越ヶ谷、増林、川柳、南越谷、蒲生第二の五小学校と中央、東、西、南、北の五中学校の給食用の副食をつくる。
鉄骨平家一部二階建千二百十平方メートルの同センター、建設費が四千八百万円、最新式の調理施設には四千七百五十万円かけており、一日一万食までできる。
同センターの完成により十小・中学校で給食がはじまると市内小・中学校十八校全部で〝完全給食〟が実施されることになる。
東電越谷営業所が新築完成
昭和四十四年八月二十六日 サンケイ
越谷市東小林一三〇〇に鉄筋四階建て二一〇〇平方メートルの東京電力越谷営業所(青柳保司所長)が完成、九月五日から新店舗で営業する。
これまでの営業所は二十一年に建てられたもので、老朽化が激しいうえ、狭いので新築したもの。同市内の社会増は多く、十年前と比較すると電力契約戸数は三倍、同使用量は八倍にもなり事務、作業量も飛躍的に増加している。同営業所では「こんどは駐車場つきの広い店舗だし、サービスは万全を期します」といっている。
越谷地方庁舎が完成
昭和四十四年十一月十三日 埼玉
越谷市越ヶ谷四―二―八二に建設されていた県越谷地方庁舎がこのほど完成、十二日午前十時から同合同庁舎三階会議室で落成式が行われた。
完成した越谷地方庁舎は合同庁舎、保健所、土木事務所の三棟からなり、保健所が昨年十月、合同庁舎、土木事務所がそれぞれことし一月から建築工事を始めていた。敷き地面積は三棟合わせて一万七千四百九十平方メートル。合同庁舎は建築延べ面積千九百五十四平方メートルで鉄筋コンクリート造り地上三階地下一階建て。一億一千九百七十万五千円で建設された。収容機関は越谷県税事務所、越谷農業改良普及所、春日部土地改良事務所、二郷半領用水改良事業所の四機関で五十九人の職員がはいる。
保健所は建築延べ面積千五十九平方メートル。鉄筋コンクリート地上二階建てで、総工費は六千万円、二十二人の職員がはいる。
また土木事務所は車庫も含めて建築延べ面積千四百八十一平方メートルで、鉄筋コンクリート二階建ての庁舎のほか鉄骨平屋建ての車庫を併設している。工事費総額五千百六十二万三千円、職員数は六十一人。
宅地ブーム足踏み
昭和四十六年三月二十四日 朝日
浦和地方法務局越谷支局は、今年一、二月の土地、建物の売買、仮登記、抵当権設定など登記件数をまとめたが、昨年同期に比べてかなり下回ったことがわかった。都市化が目立ち始めた三十七、八年からこういう傾向は初めてで、同支局は「土地、建物の売買が久しぶりににぶったようだ」とみており、県南東部の都市化の動きもこれからはかなりゆるやかになりそうだ。
支局の管内は、越谷、草加、春日部、岩槻など県内でも最も都市化の目立つところ、三十九年ごろから登記件数は年々ふえ続けた。四十五年も全体では前年より一四%も伸び、約十四万八千件。
ところが、四十五年十一月ごろから足踏み状態。今年の一月八千八百二十六件、二月一万千二十二件で、それぞれ前年同期より低い九五%、九二%にとどまった。ことに越谷、草加などはかなり低かった。
登記件数は、一般的に土地、建物の動きのバロメーターともいえる。件数がふえれば売買が盛んになり、減れば売買も少ないことを物語るという。
同支局は①土地が高くなり庶民には手が出ない②市街化調整区域の農地は宅地として買えない③不景気のあおりなどのためでないか、といっている。
通学コースは農道 大沢北小の児童
昭和四十六年五月十四日 朝日
「この道なら車にはねられないんだよ」越谷市大林、大沢北小学校のほとんどの児童は、交通事故の心配がない農道を「通学専用歩道」にして通っている。
四月に開校したばかり、まだプレハブ校舎。今年にはいると同校が大林地区鷲越の水田地帯にできることが決った。通学路として使える道は、雑草のいっぱいはえた農道だけ。市は、この道をさっそく舗装などして「通学専用歩道」に仕上げた。学校へ向って六本の道、延べ四キロ。
児童五百二十一人。ほとんどが建売り団地など新住民の子ども。ここへたどりつくまで車の激しい道を横切らなければならないのは、七十人余り。「農村部の小、中学校を含めても一番安心していられる通学コースでしょう」と同市教委。
青年の家完成
昭和四十六年五月十八日 朝日
県立越谷青年の家が越谷市増林の東部清掃組合の東側に完成、六月十一日開所式をする。県立青年の家としては八つ目。
働く青年のいこいの場で、建物は本館と体育館。本館は鉄筋コンクリート二階建延べ約千八十平方メートル。一階が読書室、談話室、調理室、食堂など、二階が集会室、茶室、写真用暗室など。冷暖房装置つき。体育館は約五百九十平方メートル。バスケットコート一面。バレーボールコート二面、卓球、バドミントン場など。総工費約一億一千四百万円。