ここで明治元年から昭和四十一年までの近・現代およそ一〇〇年間における越谷農村の移り変りの一端を農民生活の諸相とともに、出羽地区越巻(現新川町)中新田の『産社祭礼帳』によって窺ってみることにしよう。この『産社祭礼帳』とは、承応三年(一六五二)から越巻中新田の住民によって書き継がれて来た中新田稲荷神社産社祭礼の年番帳であり、年度当番者の記名のほか、農民がもっとも関心をもっていたその年度の事柄や事件などが記されている。当時の農村の実情を知るうえに貴重な史料であるとともに、多角的な視点でこれをとらえると、社会の世相や経済の推移などもここから読みとることができる。
なおここに記されている各年度は、産社祭礼日の二月から次年度の祭礼日までをいう。したがって記事は翌年の事柄にまで及ぶこともあるので、まぎらわしい点もあるが諒承されたい。またその年度によって記事の簡単なものから詳細なものまで大きな差があり、なかには年番者の記名しかない年度もあるが、できるだけ記事に即して叙述を進めた。
それでは祭礼帳の舞台となった農村越巻の概況を一瞥しておこう。出羽地区越巻は、綾瀬川に面した低湿地域の一部で、元和年間(一六一五~二四)、神明下村会田七左衛門によって開発が進められた新田村である。はじめ槐戸新田と称されたが、元禄八年(一六九五)の分村で越巻村として独立した。その村高は三六一石余という標準的な村である。戸数は天保五年(一八三四)現在で四〇戸、明治九年で四五戸、二五二名を数え七疋の馬を所有した。田畑の面積は田が三九町余、畑が一三町余でその比率は七四対二六の水田地帯である。産物は糯米を含む米を中心に、麦・大豆それに蓮根などの根菜が主であった。
また越巻には中新田と丸の内の両部落があったが、それぞれに稲荷社が祀られ、稲荷社を中心に生活共同体的な結束がはかられていた。もちろん部落の住民はすべて農民であり最近まで純農村として人びとの生活は土とともに生きていた。これは越巻に限らず越谷地域農村の共通点であり、それだけに一越巻の農村状況であっても、それはそのまま越谷農村の状況とみてよいであろう。