明治元年度~同二十年度

1066~1067 / 1164ページ

慶応四年度は、天下大動乱のすえ徳川家は駿府に退転、かわって天皇が江戸に入り、江戸は東京と改められた。さらに年号も明治と改元された。この年日光街道は奥州征伐に向かう官軍の大通行で、夥ただしい人馬の徴発が続いた。米相場は引続き高騰し、一両につき一斗四、五升位であった。同二年度は神仏習合が禁止され、中新田稲荷社も、神主香山伊織という者に引渡された。稲作は五月頃から雨天勝で冷気が続き、大不作であった。このため破免検見を願いあげ、現地調査をうけて四分六厘方の年貢減免が認められた。米相場は一両につき一斗位に急騰し、ますます高値の傾向をみせていた。

 同三年度は、昨年に引続き天候不順で不作となったが、定免通りの年貢を納めさせられた。この年庶民にも苗字が許されたが、このほか政道は相も変らず昔どうりであった。四年度は、夏季を通じて日照りが続いたため田方養水に困り、綾瀬川に仮堰を設けて用水を取水した。この年年貢米は金納となり、米一石につき代金永四貫八四五文(約四両三分)の割で金納した。米相場は一両につき二斗五升程であった。五年度は陰暦が陽暦に改められたので、明治五年十二月三日が、同六年一月一日に定められた、米相場は一両につき二斗六、七升位、六年度は夏季に暑さが続いたが、作柄は一反当り四俵半位の収穫、米相場は両に二斗位、七年度は順調な天候で経過し、作柄は反当り五俵位、しかも米相場は一両につき一斗三升三合位の高値となった。

 同八年度、九年度は平年の通り、十年度は地租改正で耕地丈量が実施され、田畑ごとに等級がつけられた。この年九州で西南戦争が起きたが、西郷勢は敗北した。同十六年度は中仙道筋に鉄道が開通し、便利な世の中になった。しかし穀物相場は追々下落し、米価は一円につき白米で二斗八升位、諸物価も下落し、人民はひとしく疲弊困苦のなかにあった。この年村内から四名のキリスト教信者がでた。同十九年度は順調な天候が続き、近来稀にみる豊作となったが、米相場は下落した。ただ藁工品などの手稼物は高値で取引された。この年夏季にコレラが流行し、野菜、果物の出荷が禁止された。幸い越巻村には罹病者がでなかった。

 同二十年度は、作柄も良く米相場も一円につき一斗八升五合の高値であった。この年度の初春、つまり二十一年の二月、消防組の一斉検閲が達せられたが、当日は雨天のため中止となった。この延期された消防組二六連合の検閲式は同年三月十五日に越ヶ谷町で執行された。司令官は越ヶ谷警察署長、そのほか警察官や村々の役人が隊伍の世話掛りとなり、越ヶ谷から大沢まで消防組の行進が行われた。当日は大暴風で土砂が目に入り、見るに見られぬ有様、実に大難儀の一日であった。また当日は中仙道筋浦和宿が大火になったが、消防隊の不足から東京第一消防隊に電報で応援を求めた。消防隊は汽車に消防器械を積みこんで急行し、間もなく消し止めたと伝えられた。