二十一年度~二十七年度

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二十一年度は、好天気に恵まれ作柄は反当り平均五俵から六俵の収穫、相場は一円につき一斗七、八升位であった。二十二年度は、同年二月十一日に憲法が発布され、東京で盛大な祝典が執行された。また同年四月、七左衛門・大間野・越巻・谷中・神明下・四町野の谷中連合各村が合併して出羽村として発足し、従来の連合戸長は村長と改称された。この年七月二十八日九州熊本で大地震、さらに福岡県をはじめ紀州の各県で大洪水が伝えられた。当地域も九月十一日の大暴風雨で稲穂は白穂に変じ、田は一面の銀世界となった。このため中稲で六割、晩稲で八割から九割の減収となった。米価も全国的な不作から急騰し、九月中旬には一円につき八升七、八合の相場、国民は塗炭の苦しみに喘いだ。そのうえ政府は救護米と称し、一反当り早稲で五俵、中稲で四俵、晩稲で三俵から一石の供出を迫ったので、農民はますます困窮した。

 二十三年度は、春から順調な天候が続いたが、八月二十七日八日の大雨で各地に洪水騒ぎがおきた。当地域の綾瀬川もたちまち満水して危険な状態になったので、村びとは総出で堤防に土俵を積みあげるなど防水に努めた。一方元荒川通り四町野の堤防も危険にさらされたので、そこへも応援を操出さねばならなかった。前門の狼、後門の虎といったところである。ところが元荒川通り対岸の大沢堤が破堤したので、元荒川からの洪水はまぬがれたが、綾瀬川通り越巻の外堤が溢水したため槐並木耕地は一瞬にして水中に没した。そこでこの溢水を新川伝いに古綾瀬川へ落そうとしたが、七左衛門組の抵抗をうけ両者の紛争となった。ようやく示談がまとまり、丸の内耕地を経てこの水を古綾瀬川に落すことができた。このときの水害は、家屋が水中に没した家もあり、屋根の上を虫や蛇が横行するのがみられた。またこのとき木に昇って水を避けたり、親戚の家に舟で助けを求めたり、命を守るのが精一杯であった。住民の一人は、この水難を忘れないため、明治二十三年寅年の水と記した水標を綾瀬川の岸辺に建てた。

 当年の米価は、昨年の不作が響いてか高値が続き、六、七月頃は一円につき八、九升、それより少しづつ回復し一斗二、三升までになった。この年四月一日、第三回帝国勧業博覧会が東京上野公園で開かれた。また国会議員選挙が行われたが、改進党・自由党と喧々轟々の争いのなかに投票が済み、当地区では真中忠直、間中進之の二名が当選した。

 二十四年度は三月から六月にかけ晴天続きで雨がなかったため、田方植付に差支え、綾瀬川に仮堰を設けて取水した。その後天候は順調に経過し、反当り六俵半から八俵半という大豊作となった。しかも米価は一円につき一斗二升から同三升という高値で取引された。この年名古屋で大地震があり、死者一〇一八人、潰屋は九四七八戸と伝えられた。また同年五月、露国皇太子が大津で凶漢のため刺され遭難した。日本は二〇〇万円の賠償金を支払い謝罪の使節を送るなどして国交を保った。

 二十五年度は、春先から雨が降り続き、田方植付の際にも番水を待たず田植をする有様であった。植付後も雨が続いたため耕地は一面海のごとき景観であり、稲草はすべて水中にかくれた。そこで水車を使って逆に水を汲だす始末であったが、この費用は一反歩当り八五銭ほどであった。その後天気は回復したが、晩稲には虫がつき、葉先一面枯葉のようになった。このため早稲で反当り五俵から六俵、中稲と晩稲に至っては、四俵から五俵半の不作となった。しかも秋に入ると霖雨が降り続き、稲米の乾燥が悪く農家一同非常に困った。米価は上米で円につき一斗二、三升、並物で一斗三升から同四升であった。

 また年が明けた二十六年の冬は寒気が厳しく、岐阜や長野そのほか東海道大垣―彦根間で深雪のため汽車が止まり乗客が迷惑した。この寒気は日本ばかりでなく欧州でも同様であり、凍死者が続出したと伝える。この年二月七日から、千住茶釜から越ヶ谷町までの馬車鉄道が開通し、同二十一日からは岩槻町への架設電信も開通した。

 二十七年度は、二月頃から降雨が少なかったため、田の土は岩石のごとき土塊と化し、水車で水を入れても焼石に水という有様であった。農民は水を求めて東奔西走、食を忘れて努力を重ね、なんとか植付を済すことができたが、その作業は筆舌につくし難い困難なものであった。しかし植付後も養水に差支え、たちまち田に亀裂が生じた。しかも夏季の炎暑は厳しく、場所によっては河川の水も涸れて夥しい魚類が河底に死んだ。それでも農民は必死に水を求めて水車を廻し、田の草を取って稲の枯死を防ごうとした。こうしてところによっては村同士部落同士の水争いとなり傷害事件にまで発展するところもあった。越巻組では大間野組・七左衛門組と協議の結果、綾瀬川に仮堰を設けたが、水は一向に溜らなかった。これは上流尾ヶ崎村で仮堰を設け流れを止めていたからであった。ところが尾ヶ崎堰がどうしたことか破潰され、その溜水は越巻堰に流れた。このため当地域は思いがけず豊富な養水を得ることができた。その後天候は、時には慈雨もあって比較的に順調であったので、その収穫は反当り平均五俵を超えた。ただ畑作は養水不足のため全滅に近い大不作であった。ちなみに当年の旱魃にあたっては、越ヶ谷町では久伊豆神社の池の水まで汲み干されたが、社前では連日にわたって雨乞祈願が行われた。また登戸・増林などでは旧例にしたがい、銅羅や太鼓を打鳴らし、あるいは藁で龍形をこしらえ耕地をねり歩いたりした。この旱魃は当地方ばかりでなく、千葉県をはじめ近畿・伊勢の諸県がことにひどかったという。

 当年の物価は日清開戦のため急激に上昇、米価は白米一円当り六升四合という高値を記録した。ことに深川倉庫の在庫米は同年夏から秋にかけて一六万俵という稀有の減少を示した。同年暮から翌二十八年にかけては新米が出廻ったため白米で一円当り七升から八升に回復し、深川倉庫の在庫米も八九万八〇〇〇余俵までに復した。この年六月二十日に大地震があり、当地域では農作業中水車から振落される者も珍しくなかった。東京では家屋の損壊は無数で数十名の死傷者がでた。ことに南葛飾郡の石油再製所が地震のとき出火し、大ぜいの死傷者がでた。また同年十月、山形県の蔵王山が爆発、酒田町では津波に襲われた。こうしたなかで同年十二月九日上野不忍池で旅順陥落の祝提会が行われた。