三十年度~三十九年度

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三十年度は年間を通じて晴天の日が少なく、夏季も冷雨が降り続いたため、木綿をはじめ豆類・瓜類はすべて腐敗した。さらに九月九日には暴風雨が襲来したため稲作も大不作になった。ちなみに稲荷社持の産社田は、三俵余の収穫に過ぎなかった。しかも諸物価は高騰を続け、米価は玄米で一円当り七升、白米で六升前後、東京の旅籠屋料金で一泊四〇銭が普通になった。この年夏中赤痢が大流行したが、幸い越巻組からは罹病者がでなかった。また三十一年一月に越ヶ谷仲町伊勢屋方に鈴木銀行が開設された。

 三十二年度は、米相場上等米で一円当り七升、下等米で九升、この年九月二十六日東武鉄道の開業式が行われた。三十三年度は、春から風雨順調で稲の生育は良好であったが、九月二十八日の暴風雨による被害のためか、予想に反して作柄は悪かった。この間諸物価はますます高騰していたが、米価は逆に一円当り八升五合、秋には九升までに下落した。この年糯米三俵の謝礼で産社の幟一対を新調し稲荷神社に奉納した。また同年七左衛門に天理教会が建てられ、その開会式が行われた。このほか越谷地域で陸軍第一師団の秋季野戦演習が行われたが、騎兵大佐閑院宮が四町野の大野伊右衛門家に休息された。東京では神田明神の歳の市で、雑踏のため数十人の死傷者が出た。国外では清国で義和団の乱が起った。

 三十四年度は、天候は良好に経過したが、当地域の作柄は、場所により反当り三俵半から六俵と不同であった。米価は高値で一円につき七升、安値で九升余までの変動があった。この年出羽小学校の新築落成式が行われた。国内では青森歩兵五聯隊が雪中行軍の際、吹雪にあって遭難し、一三九名の凍死者がでた。

 三十五年度は、春から雨天勝ちで田植時期にも番水の必要がなかった。夏季も永雨で冷気が続き、土用中も重ね着で農作業をする始末であった。それでも稲の成育は良好にみえたがその実、葉茎が軟弱で害虫がついた。しかも九月下旬には大暴風雨に襲われ、作柄は反当り二俵から三俵半という大不作となった。小作料をめぐり地主・小作間で紛争が続いたが、一割五分引で妥結した。米価は一円当り六升五、六合、この年夥ただしい南京米が輸入されて市場に出廻った。また越ヶ谷町に〓世倶楽部が設立された。

 三十六年度は、土用前は雨天勝であったがその後天候は回復し、「此分じや今年やお米が穫れますべえ」と喜びあった。ところが「越中褌は向うから外れる」といわれるごとく予想に反して、二化螟虫が大発生し、不作となった。しかも米相場は六月頃までは一円につき六升までであったが、それから下落しはじめ、八升から九升に下った。

 三十七年度は、冬は酷寒でしばしば降雪をみたが、春は温暖で草木の発芽もよく、夏は酷暑で申し分ない天候であった。ところが九月一日の大暴風雨でまたまた晩稲は大被害を蒙った。このため積年の疲弊を償う収穫をあげることができず、農民は大きな失望を感じた。この年日露開戦で出羽村からも多くの召集者がでた。このうち三名の戦死者があったが、三十七年秋から三十八年の冬にかけて、これら戦死者の村葬が行われた。また同年数回にわたり、軍事徴発用の米や馬や荷車の買上げが行われたが、麦の買上げには応じなかった。

 三十八年度は天候不順で麦作・米作ともに不作であった。ことに晩稲は平年作の半分にも満たない収穫で農民の意気は沈滞した。それでも当地域は早稲の産地で比較的被害の少ない方であった。この年日露戦争は日本の大勝利で終り、講和条約が結ばれたが、この講和条件を不満とした群衆が九月五日に日比谷公園に集り、内務省官舎や警察署などを焼打した。この間関係ない多くの通行人までが警察官などによって殺戮された。

 三十九年度は、春から夏にかけて近来稀な旱天続きであった。農家ではこの好機をとらえ他の仕事を止めて老若男女すべてが田面の転耕に努めた。肥料代の節約をはかるためである。幸いこの照り続きにもかかわらず、稲の植付も無事に済すことができた。その後稲の成育も非常な出来栄で、今年こそは桝でははかりきれず、箕ではかるほどの豊年満作だと一同雀踊りしていた。しかしあにはからんや、初秋あたかも稲の開花時に雨天が続いて冷気に襲われ、早稲・中稲はともかく、晩稲にいたっては、平年作の三分の一にも達しない不作になった。しかも永雨のため乾燥が不十分でいずれも普通米として通用できない粗悪米である。苦心惨憺の努力も空しく、数年来の不作に農民の失望はいよいよ深まった。このときにあたり中新田の農民は、風雨順次、五穀豊饒を改めて強く祈願するため、一同稲荷神社に参集、おごそかに産社の年祈祭を執行した。この年十月、出羽村で金鵄勲章功七級を授与された者は三名、ほか叙勲受賞者は多数に及んだ。