四十年度は、連年にわたる不作に負けず、風の日も雨の日も、田を耕やし、苗代を作り、種子を蒔き、植付を行なうなど、目の廻る忙がしさのなかで働き通した。国家の基礎をきずきあげてきた百姓は、このような繁忙のなかで、労力を惜しまぬ健全さを発揮しているのである。天候は春から夏にかけて順調で、三番の除草も終り一安心できた。ところがまた八月中旬から冷気が襲来、連日にわたって豪雨が続いた。このため利根川・荒川は増水して氾濫し、ところによっては洪水に見舞われた所もあった。ことに綾瀬川下流は荒川の逆流をうけて、北千住の堤防が決潰し、隅田・向島・本所・深川地域は水没した。
幸い当地域は水害の被害は少なくてすみ、作柄は豊年とまではいかないが平年作を上まわった。米価は予想外に高騰し、早稲で一円当り五升という相場が出た。副業である莚の相場も高値をとなえ、一駄一六貫の価格は四円前後、養蚕も上作で繭相場は一貫目当り五円前後であった。この年戸塚・出羽両村入会橋の掛替工事が県費五分の補助をうけて施行された。残り五分の負担率は戸塚七分、越巻三分の割合であり七月に竣功した。また越巻を通過する岩槻道、それに七左・越ヶ谷、大門・越ヶ谷間の道路も県費補助で補修工事が施工された。国内事情に関しては、当年十二月政府は突然煙草を三割方値上げしたので、喫煙家の大恐慌を招いた。さらに日本は六〇〇〇万円にのぼる貿易収支の輸入超過を発表、諸株式は暴落し、鈴木銀行の取付騒ぎがおきた。また横浜方面で天然痘が流行、出羽村では小児から五〇歳までの者残らず種痘が行われた。国外的には米国で日本人移民排斥運動が高まり、日・米が対立、日米戦争を予想する国もあった。
四十一年度は、天候不順で平年作の二割減という作柄、しかも米価は大下落し、一円当り七升から八升五、六合まで、この年十月、中新田青年組主催の大演劇興行が畑地で行われたが、参観人は群衆して盛会であった。また新方領の耕地整理計画が伝えられたが、用水問題で紛争、その後接衝の結果協定が成立して解決をみた。
四十二年度は、近来稀な好天候に恵まれたが、実際の作柄は平年作に過ぎなかった。しかも米価はなおも下落を続け、年末にいたっては一円当り九升を超えたものもあった。このなかで糯米は六升から七升五合位で取引された。この年大袋村大林に宮内省鴨場が開設、皇太子の行啓があって開場式が行われた。また当年は、小学校の教育義務年限が六年に延長され、出羽小学校に校舎一棟が増築された。なおこの年十月、渡満した伊藤博文は、ハルピン停車場で凶漢のため遭難死した。
四十三年度は、天候も順調に経過し豊年が予測されたが、八月七日大暴風雨が来襲、関東の諸河川は満水し氾濫の危険が増大した。部落の者は総出で雷鳴豪雨のなかを、徹夜で新川堤防などの警戒にあたった。幸い当日は出羽新川で多少の溢水があったが、翌日の夕刻には一尺の減水をみた。ところがその後利根川・荒川をはじめ諸河川の増水ははげしく、上流各地で氾濫の情報が伝えられ、十二日の朝には、綾瀬川通り尾ヶ崎村まで洪水が押よせてきた。越巻では警鐘を乱打して人びとを綾瀬川堤防に集め、土俵を積み木を伐採して水防に努めたが、人力いかんともしがたく、午前八時頃には堤防上二尺の越水で、濁流は田畑に溢れ、耕地は一面の湖沼と化した。この水で多くの家は床上一尺から二尺の浸水となり、家財ことごとく水につかった家もあった。越巻では翌十三日から、水難をまぬがれた四町野の住民によって、船で三日間にわたる炊出しの配給をうけたが、十五日頃から水が引きはじめ、二十四日頃にはおよそ元に復した。この間越巻の住民は戸別に出動して綾瀬川・新川・出羽堀の堤防補修に努めた。また政府はこのとき国税五円以下の罹災民に対し、米や味噌それに陸軍省の寄付による牛罐などを配給した。
この水害で耕作物の被害は大きく、稲作にあっては収穫皆無という状況であり、樹木の枯死したものも少なくなかった。そこで地租や地方税免除の手続きをとったが、税務署員実地検分の結果、七左衛門寺裏耕地の一部を除き、他はおよそ免税が認められた。この水害でとくに被害の大きかったのは、幸手領・庄内領・新方領・二郷半領などの地域であったが、元荒川西岸の大相模村から末田村にかけては被害は少なかった。このため稲種子はこの方面からの供給をうけた。米価は水害地産で一円当り七升から八升であったが、肥料代を差引くと収支零という状態であった。その他野州米は市場を賑わし、一円当り五升八合から六升三、四合位、ことに糯米は高騰し、神明・荻島付近産出の太郎兵衛糯は、一俵一〇円という珍しい高値を呼び、被害の少なかった地域の農家は好況であった。しかし被害の大きかった越巻中新田では、当年の産社祭りは米五合と神酒代三銭を徴収し、一戸一人の出席で本年度の豊作と無事息災を静かに祈願した。
この年八月二十九日、日韓合併の提灯行列が行われたが、韓国は朝鮮と改められた。事件としては、阿蘇山の噴火、下練馬の七人斬、大川端の生首放棄・赤坂見付の電車衝突、四〇名に及ぶ貰い子殺し、コレラの大坂流行、水天宮の雑踏惨事、白瀬中尉の南極探検出発、幸徳秋水の死刑、このほか日米野球戦の開始、それに千里眼婦人御船千鶴子入京による千里眼の大流行などがあった。
四十四年度は、七月中旬に大暴風雨の襲来があったが、かえって害虫の駆除に役立ち、近来稀にみる豊作となった。米価は初秋から暴騰し、一円当り五升という値が続いた。十一月頃多少下落したがすぐ持直した。麦も高値で円当り一斗二、三升、挽割は六升から七升位、驚くほどの値で取引された。この年清国で革命、皇帝は退位して共和政府が樹立された。
以上が越巻中新田を中心とした越谷農村の明治期における農民生活の一端である。維新当時は政道も相変らずであったが、租税が物納から金納に変り、電信や鉄道が敷設されるなど、文明の波が押よせてくるのが感じとられたが、農民の生活には大きな変化はみられなかった。農民にとっては一年を通じもっとも重要なことはその年の天候であり、秋の収穫量とその米価が関心の的であった。この間農民は日清・日露の戦争を経験し、幾多の犠牲を強いられ、多くの戦死者を出しながらも、軍国主義政策の傾斜に知らず知らず捲きこまれていった。農民は国の諸政策とはかかわりなく、農作業そのものが生活のすべてだと思いこまされていたからである。