大正元年度~同七年度

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明治四十五年、すなわち大正元年度当地域の作柄は、一反当り五俵半から場所によっては八俵の収穫を収め豊作であった。相場は早稲米で一円につき五升二合から六升、つまり一俵当りおよそ七円であった。この年七月三十日明治天皇の崩御により、一週間にわたって歌舞・音曲が禁止されたが、同九月十三日から行われた葬儀の三日間も同停止の達しが出された。この短時日の謹慎は、古今に例はなく国民を愛撫する有難い大御心であったと人びとは恐れ入っていた。

 大正三年度は気候不順のため麦作は大不作となり、相場は一円につき三斗五升から同六升の間であった。稲作も当初の見込みに反して平年作をでなかった。ことに糯米は刈り取り間際に大雨をうけて水没し、品質はいずれも粗悪なものになった。しかも欧州大戦の影響と政府の緊縮政策の余波で米価は下落、糯米で一俵六円から七円、硬米にいたっては一俵当り四円五〇銭ほどに暴落した。しかも当年から産米検査が実施されたため、俵装の改良にも迫られたが、同五年一月には俵装改良講習会が荻島小学校で開かれた。これには蒲生・出羽・桜井・大袋・荻島各村の講習生が参会し盛会であった。この年綾瀬橋上流の綾瀬川屈曲部分の直道改修工事が施工された。また新方領耕地整理の功労者原又右衛門と越ヶ谷町長大塚善兵衛の逝去が伝えられた。

 同五年度は、初秋から雨天が続き、収穫期を通じて快晴の日は一日もなかった。このため米質を損じ、さらに乾燥不十分で生産米改良第二年度の成績も大不良であった。収穫も一割方の減収となったが、ことに底地の水田は大雨時に水没したため甚しい損害であった。農家副業の藁材料も藁の腐朽で上質な藁工品の生産は不可能であった。米価の相場は、十一月初旬には、粳米一俵当り八円五〇銭ほどに暴騰したが、同十二月には五円七〇銭位に下落した。糯米は十二月初旬九円ほどの高値をつけたが追々下落し、六円六、七〇銭になった。この年出羽村役場の改築工事が総工費二五〇〇円で竣功した。この財源は、江戸川筋御猟場御手当金の蓄積金である。また同年七月には赤痢が発生し出羽村で二名の死亡者がでた。

 同七年度は当初稲作の生育が順調で豊作が見込まれたが、九月二十四日に台風が襲来大きな被害を受けた。早稲は収穫ずみであったので被害はなかったが、中稲・晩稲のうち、とくに晩稲の損害は大きく、一反あたり三俵半から四俵の収穫、しかも品質粗悪でほとんどが不合格米となった。当年の諸物価はいずれも異状な昂騰を示したが、とくに米価は三月頃から暴騰を続け、十二月に至っては乙米一俵一八円五〇銭、糯米同一七円五〇銭から一八円五〇銭という古今未曾有の大暴騰となった。この年八月頃からスペイン風という悪性感冒が流行し当地域でも病魔に犯されてたおれる者が続出した。