八年度~十三年度

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同八年度は天気良好で米麦とも豊作であった。このうち米は一反当り六俵から七俵以上の成績であった。副業用の藁も乾燥が良く、上質な藁工品を多量に産出することができた。諸物価は欧州大戦が終結したにかかわらず、通貨膨張のためにさらに昂騰、このうち米価は同年九月、粳乙米二三円、糯同二四円にまで跳ね上った。副業も好景気で農家は潤い、これにつれて風俗や生活も華美怠惰に流れた。このため当局の指導もあり、出羽村では矯風会を組織して風紀の改善に乗りだした。当年もスペイン風が大流行したが、これは世界的な規模であった。

 同九年度は、前年に引続き米麦とも豊作であった。諸物価は三月中旬より下落しはじめたが、株式相場は大暴落を来し、会社・銀行・大商店とも軒なみ休業、あるいは破産の恐慌を現出した。ことに綿布などは問屋や小売商を問わず投売して営業を続ける有様であった。農家副業の「コモ」も、一月頃まで一〇円のものも、三月頃には五円に下落した。米価も三月に乙米一俵二三円二〇銭で取引されたが、同五月には二〇円、同九月には一四円、同十二月には一〇円五〇銭と倍以下の急落ぶりであった。この年六月、ロシアの尼港で日本軍二箇中隊、および居留民合せておよそ五〇〇人が虐殺されたという報道が伝えられる。同月出羽村信用販売購買組合が結成された。

 同十二年度は、九月一日関東大震災にあったが、当地域の被害はもっとも甚しく、全壊家屋二九戸、半壊一〇数戸に達し、一名の死者が出た。この震災被害により、当年度の産社祭礼は、一戸から一名の出席で質素に執行された。なお米相場は一俵当り一三円から一四円程度であった。

 同十三年度の米作は、一反当り六俵から七俵余の豊作であった。米価も当年の秋からもち直し、粳米で一六円以上、糯米で二一円位までに取引された。この年県からの指導により、勤倹貯金組合が組織された。また農事改良組合では、農商務省から五〇〇円の補助金を受け、農業協同倉庫を建設した。

 以上が大正期における越巻中新田の状況である。当時の農民は、大正初期の緊縮財政による不況、欧州大戦の余波による好況、そして大正九年以降の世界恐流と、はげしい経済変動の波に弄されてきた。農民はそのつど経済変動の明暗につつまれながら、これに対処して生き抜いてきたのである。