昭和三年一月普通選挙法によるはじめての県会議員選挙が施行され、南埼玉郡定員四のうち渋谷愧一、本多慶雄、蒲生村の清村善蔵、出羽村の大野伊右衛門が選出された。ついで、同年二月衆議院議員総選挙が行われたが、民政・政友の二大政党が伯仲、このなかで社会民主党・日労党・労農党などの革新政党が進出をみせた。
同年三月世界恐慌の余波で、十五・川崎・台湾・渡辺・近江・村井・中井の諸銀行をはじめ、幾多の中小銀行が休業し預金者の不安をたかめた。この影響で金融は吐絶し会社や商店の倒産や破産者が続出して収拾できない社会不安を惹起した。このため政府は銀行の整理に着手したが、このとき中井銀行越ヶ谷支店も閉鎖された。
同年度は冷害により不作であったが、米価は引続き下落を辿り、早稲米一俵当り一一円前後、中稲・晩稲で一二円前後であった。ただし糯米のうち太郎兵米糯は乙米で一六円五〇銭ほどで取引された。この年大正十二年の震災で倒壊した中新田薬師堂を、同堂の財産金と村びとの寄付金によって再建した。工費は八五九円余であった。このほか越巻丸之内の虚空蔵堂や、村社七左衛門の稲荷神社もそれぞれ再建された。
また今上陛下の即位式が同年十一月十日より同十七日にわたって京都で挙行されたが、出羽村ではこの御大典を記念し、出羽小学校校庭に御真影奉安殿を建設、同年十一月の御大典に盛大な落成式を挙行した。なお中新田産社祭の費用は、農村不況の折柄、稲荷社持の田からあがる収益金のほか、仕法を変え一戸当り米五合と御神酒代三〇銭以上の自由寄付に改められた。
同四年度の稲作は、当初順調な天候で稲の成育も良好であったが、盛夏時に一滴の降雨もなかったため、旱害・虫害に襲われ、平年作の半分という大減収になった。しかも米価はなおも下落を続け副業収入もいちじるしく底下した。そのうえ土木その他の官庁工事も中止されたため、働くに仕事なく、食するに食料もないという未曾有の不景気が倒来し、近隣地域では小作争議が発生した。しかし中新田では小作料一割減を協定し、一同不景気退散を祈願したりして平和であった。翌五年二月、衆議院の解散で同議員総選挙が行われたが、当地区では野中徹也・古島義英・出井兵吉の三人が当選した。
同五年度の天候は春先から順調に推移し、稲作は近来稀にみる豊作となった。しかし米価は全国的な豊作も一因して大暴落、粳乙米一俵当り七円二、三〇銭、糯米で七円五、六〇銭、菰一駄二円五〇銭、このほか蔬菜類も平年の半値という農村恐慌となり、「今日農家の生活は誠に惨憺たるものであります」と農民をして述懐させている。このため政府は翌六年一月、米価暴落の農村対策として二〇〇万石の米穀買上げを断行するとともに、貯蔵米の励行を奨めたり、若干の奨励金を交付したりした。さらに同二月にも一〇〇万石の第二次政府米買上が行われたが、農家としては利益はなかった。このほか村役場でも不況対策として越巻道路の大修繕を施工したが、この資金は江戸川筋御猟場手当金五年間の蓄積金と共有地施工県補助金、それに医療・土木決算残余金によった。また同三月には農事改良組合に五〇〇余円の農家保険組合県補助金が交付された。
この年(昭和五年)報知新聞社報知号が、ベルリンから立川飛行場までの無着陸飛行に大成功を収め、人びとの胸を躍らせたが、同年十一月には浜口首相が凶弾をうけて遭難、また同月伊豆半島に大震災が起り、熱海・伊東・箱根方面が大被害を蒙るという暗いニュースも伝えられた。
同七年度は、春の頃から順調な天候に恵まれ稲作豊作ではあったが、政府の通貨膨張政策で同年十一月には五等米で一俵当り八円五〇銭前後、十二月には同九円五〇銭、糯米三等で一三円五〇銭までに回復をみせた。