同八年度は四月以降日照りが続いたため近来稀な旱魃にみまわれ、田方養水に差支え、場所によっては田植のできなかった所もあった。しかし当地域は無事に田植を済し、養水にもなんとか間に合せることができたが、この間の努力は並大低のものでなかった。こうした努力が実り、その収穫は平年作以上の成績を収めたが、米価も粳米五等で八円三〇銭、糯米四等で一一円以上の相場で取引された。ところがその後急転直下の勢いで米価は下落し、糯米は粳米より下値をみせた。
この年荻島・新和両村による耕地整理組合が結成され、まず排水幹線の開鑿が施工された。この排水堀は、越巻西耕地の中央を貫通させて綾瀬川に落されたので、落し口に橋が架けられるなど、この辺りの旧観は全く一変した眺望となった。また同年出羽小学校前から三ッ谷を経て赤山街道に通じる村道の改築工事も行われた。また満州事変により当地からも二名の応召者がでた。
同九年度は、多収穫記録をねらって努力したが、七月土用以降冷気が続き、さらに九月二十一日には台風に襲われて不作となった。小作農の間からは小作米の軽減運動がたかまったが、地主・小作の調停が行われ、米一石につき一割の貸付が行われた。しかし作柄はきわめて悪かったが、米価の方は続騰し、早稲の粳米で一俵あたり一〇円五〇銭、十一月には粳四等米で一二円、翌十年二月には一四円五〇銭の高値を示した。
同十一年度の天候は、一月二月を通じて寒気が厳しく、数回の大雪に見舞われ、秋の豊作が見込まれた。しかも夏季中は暑さ厳しく稲作には申し分ない天候だったが、実際の収穫は予想のほか悪く、平年作をやや上廻る程度であった。米価は糯米三等一俵あたり一三円五〇銭、粳米三等で一二円三〇円銭ほどの相場であった。この年総工費一〇〇〇円で中新田稲荷社殿の改築工事が施工され、四月三十日竣功、五月一日に御遷宮式が挙行された。さらに同年十月には、青年会主催で遷宮記念の演劇が催されたが、観客は雲霞のごとく殺到し、すこぶる盛大な秋祭りとなった。
同十二年度は、一月のはじめから近年にみられない暖気が続いた。ことに七・八・九の三ヵ月は毎日のような猛暑に見舞れたが、稲作は順調で病虫害も少なく、作柄は平年作以上の成績を収めた。本年は県令によって刈取期を早め、乾燥その他米穀改良に努めたので、埼玉県の米は他県にみられぬ高い価で取引された。また当年は日支事変の影響で、諸物価は異状なほどに騰貴したが、米価は粳米三等一俵当り一三円三〇銭、糯米二等一五円五〇銭ほどであった。副業の縄莚も続騰し、菰で一駄六円七、八〇銭、野菜類も軒なみ高騰した。なお日支事変以後、出羽村からの出征兵、ならびに海外現役兵は四二名を数えるにいたった。