同十三年度は、初春から降雨が少なく心配されたが、その後順調な天候が続き、田植も終って稲の発育も至極良好であった。ところが六月二十八・九日大雨に襲われて耕地は泥海と化した。大水の減退後追肥をほどこし、除草に精出すなど、多収穫のための努力が続けられたが、またまた稲の出穂期の九月一日に大暴風に襲われ、前年とはうってかわり、一反あたり平均三俵から良くて四俵、なかには一俵という不作となった。秋の米価は、粳米で一三円三、四〇銭、三等糯米は十一月二十日頃一俵当り二〇円の高値を呼んだが、すぐに下落した。この年出羽村で日支事変による三名の戦死者がでた。このうち一名は十月八日に村葬が行われた。他の二名の英霊は、十二月二十四日、村内名誉職・役場吏員、愛国・国防両婦人会、青年学校生徒、消防組、小学校生徒その他各種団体の出迎えを受けて出羽村に帰還、翌十四年一月に村葬が執行された。
同十四年度は天候すこぶる良好で、一反当り平均六俵以上の成績を収めたが、日支事変三年目を迎え、諸物価高騰して生活は楽ではなかった。米価はすでに公定価格制度が実施されたが、同年秋とくに値上げが認められ三等米で一俵当り一六円九五銭になった。当年は、関西や朝鮮などが旱害をうけて凶作のため、米の需給が不調となり、都市部では飯米の入手が困難になった。このため闇米が横行し、一俵当り二〇円の高値で取引された。また石炭や木炭の供給も不足し生活不安が高まった。ことに生産不足を理由に肥料が暴騰したため、「需給不円滑ノ状態デ、全ク当惑セラレマス」と農民を嘆かせていた。しかも政府はこの年米の需給円滑を図るため供出令を発布、強制的な米の政府買上げが実施された。
同十六年度は低温多雨の結果、一反当り三俵ほどの不作、被害の大きな場所では、四斗位の収穫しかなかった。翌十七年一月一日より繊維製品統制令が公布され、衣料の点数切符制が実施された。同十九年度は雨量少なく、日照りが続いたため、養水不足となり、高田は不作、深田は豊作という現象をみせた。この年中新田部落は、一反当り三俵三斗六升の供出米割当を完納する成績を収めた。この十月からは本土空襲が始まり「一億国民火の玉となり職場々々」で戦う状態となった。
以上が『産社祭礼帳』から窺うことのできた農民生活の一端である。これには農民の主な関心事が何であったかがよく現われているが、各年度を通じ、天候と収穫、それに農産物の価格がもっとも大きな関心事であったのが知れる。ことに昭和初期の農村不況には、米価をはじめ農産物の暴落で痛めつけられた農民の様子が目のあたり偲ばれるようである。その後日中戦争、とくに太平洋戦争からは、農民の口も閉ざされたとみられ、その記事もきわめて少ない。緊張した暗い世相の一端がここにも現われているといえよう。