昭和二十一年度は、田植時から順調な天候に恵まれ、極度の肥料不足にもかかわらず全国的な豊作となった。ことに越巻地域は近来稀にみる大豊作で、その収穫は深田で一反当り八俵から九俵、場所によっては一〇俵からの収穫があった。いずれの農家でも、供出制度のため実際の収量をかくして少な目に申告したが、稀有の大豊作であったのには違いなかった。この年の産社祭礼は、酒類などの配給関係から、定例日の二月二十六日を二月五日に繰上げて執行した。
二十二年度は、前年に引続き天候は良好で豊作が見込まれたが、九月十五日からのカスリーン台風による豪雨で、利根川堤防が決潰し、埼葛地域の大部分は大洪水となった。幸い出羽地域その他は、村民必死の水防作業によって水害をまぬがれることができたが、このためかえって供出割当量は前年に比べ大幅に増大、出羽村では七五〇〇俵の割当増加となった。農民の供出負担はきわめて重かったが、越巻では全農家が一〇〇%の供出を完納した。この年の物価の闇値は、米一俵で七〇〇〇円、大麦一俵で四〇〇〇円、人参及び牛蒡一貫目当り一〇〇円、くわい同三〇〇円、蓮根同一五〇円、大豆一升一五〇円、酒一升七〇〇円、炭一俵四〇〇円、砂糖一貫目一五〇〇円、下肥一荷八〇円、硫安一貫目三〇〇円、石灰窒素一袋一二〇〇円、呉服綿一反一五〇〇円、手拭一本一五〇円、そしてこの闇値はますます騰貴する一方である。
幸い連合軍の好意により、配給は多少好転のきざしがみえだした。当年は関東・東北の大水害、四国香川県の大地震、それに県下においても各地で強盗殺人事件が頻発し、村民は毎日のごとく不安にかりたてられた。またこの年連合軍の指示により農業会は解散させられたが、新たに農業協同組合の設立準備が進められた。
二十三年度は、春から順調な天候が続き、稲の発育も良好で、七月には早くも新聞やラジオで全国的な豊作となるだろうと伝えられた。ところが当地方は八月に入ると俄かに寒波が襲来し、九月上旬にかけて毎日のように冷雨が降り続いたうえ、九月二十日には大雨があり、深田沼田は一面に冠水した。このため深田で一反当り一俵半から良くて三俵半の収穫、出羽村全体の平均収量は四俵半という大不作となった。しかし供出量はすでに五月中に割当が行われ、上田で二石四斗五升、中田で二石四斗、下田で一石九斗五升、等外地で一石六斗という過重な査定をうけており、出羽村全体では一万二〇〇〇俵の供出割当となっていた。水害後割当補正が行われ、六分引が認められたが、それだけに供出米の取立ては厳重をきわめ、ほとんどの農家は保有米もなくなるという有様であった。天候はその後翌二十四年一月に入ると異状な暖気続きで、熊谷測候所の発表では明治九年以来の高温記録であると報ぜられた。このため二月上旬には梅の花は満開となり、場所によっては麦の穂が出る始末で当年の麦作が心配された。
この年新制中学校校舎新設の通達がだされたため、出羽村では村民一丸となり、四反歩の校舎敷地に土盛りを施こし、四月開校を目ざして準備が進められた。また同年には、衆議院議員総選挙が施行され、社会党の片山内閣が成立したが、間もなく芦田内閣と変り、新税・増税が強行された。農民にも第二事業税が新しく課せられたが、出羽村農民は、一反歩当りの田からの所得は六〇〇〇円、畑同八〇〇〇円の申告をした。翌二十四年一月の総選挙では、第四区から八名の候補者が立ったが、民自党の青木正、同古島義英、同佐瀬昌三が当選した。この年一月一日から連合軍の好意により、自由に日の丸の国旗を掲げることが許され、平和日本と変りつつある感を深めた。
二十四年度は、農民にとって実に大きな変化がもたらされた年である。今までの得意の絶頂から、まさに不景気のどん底につき落された感じである。すなわちドッヂ公使による財政計画の立直しや、シヤウプ博士による金融政策などの勧告で、輸出入貿易にも大きな影響が及ぼされたが、なかでも世界の食糧事情の好転から、食糧の大量輸入が行われ、まず藷類の統制が緩和された。この急激な変化に対応し、農民は今後堅実な農業経営を堅持して、その安定を図る必要があるだろう。
さて同年度の稲作は、春から夏にかけて豊作型の天候であったが、八月三十一日のキテイ台風により一瞬にして大被害を蒙った。幸いその後の天候が良好であったので、稲作は多少持直したものの、供出量の補正は僅少であった。しかし出羽村では県下で一六位の早期供米を完遂した。ことに中新田では、村内でもトップで供米を完遂し、賞金ならびにトップ賞を授与された。この間出羽村では、隣接町村に先がけ、十月十五日に新制中学校校舎の落成をみた。