二十五年度~二十九年度

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二十五年度は、豊富な灌漑用水と高温多照の天候に恵まれ、秋の豊作が予想されたが、七月二十八日からの台風ジュンの来襲で、連日にわたる豪雨となり、三十日夜には水田は一面の泥海と化した。場所によっては四尺余の冠水で五日間も水没していたところもあった。中新田部落の農民は、このとき二昼夜にわたり総出で新川や出羽堀堤防の補強に努めるなど、不眠不休の警戒にあたったため、洪水の難はのがれた。しかしこの台風の影響で収穫は平年作を下廻り、被害田では反当り三俵から三俵半の収量で、供出米にはきわめて苦労が多かったが、早期に完納することができた。

 この年六月二十六日、朝鮮に動乱が起り、日本の産業や経済に大変革がもたらされた。こうした関係によるものか、ダレス特使が来日し日米講和条約の締結が促進される機運が生じた。

 二十六年度は、台風の襲来もなく珍しく穏やかな年であったが、七月下旬の発育最盛期と、九月下旬の幼穂の形成期がきわめて低温であったので収穫は予想よりも底かった。しかし全国的には豊年であった。当年も部落一同の協力で他部落より早く完納できた。この年九月、日米平和条約が締結され、経済事情もいよいよ好転、闇値も安定するにいたった。

 二十七年度は、三月四月に降雨量が多かったため、春田が乾かず二毛作の管理が不十分となったが、五月に入って天候は回復した。ところが六月二十四日の大雨で深田沼田は泥海と化し三日間の冠水が続いたため、植付直後の稲苗は腐敗した。またエビガニの被害をうけて苗を植替えるところも多かったが、さらに虫害や青ミドロの被害田が広がり、全滅同様の田もあった。七月から天候も持直し、これからの成行では豊作も期待できたので、例年より多量の肥料を施したが、八月末から九月上旬はやや低温の日が続いた。このため出羽村一般に二化螟虫が発生したので、ポリドール薬を撒布したが効果少なく、その被害はきわめて大きくなり、南埼玉郡中では一番の不作地になった。責任供出は完納したものの超過供出は四〇%にも達しなかった。このなかで中新田は責任供出を村内第三位で完納し、超過供出も五〇%の成績であった。なお稲荷神田免田の作柄は、五俵一斗の良い成績を収めた。施肥は石灰窒素二袋、溶成燐肥一叺、魚肥三貫目、硫安三貫目であり、この肥料代は三〇七八円であった。

 二十八年度は、天候不順で稲に病虫害が大発生した。しかも七月上旬より低温多湿の気候が続いたが、とくに西日本では大水害を蒙った。当地域は水害はなかったものの、気温の変動がはげしく、十三号台風の襲来後各地で病虫害が発生した。ことに気象異変のため晩稲品種は不稔粒による青立田が続出した。その後天候はやや回復したので、何とか反当り三俵から四俵の収穫を得ることができた。この年町村合併促進法が制定され、各地で町村の合併が叫ばれるようになったが、農村の福祉増進と住民負担の軽減、それに農村文化の向上のため、是非とも町村合併の実現を期待する声が強かった。同時に農業経営の安定を図るため、土地の改良は万難を排して達成することが切望されている。

 二十九年度は、昨年度に引続き天候は不順であった。ことに六月に入ると気温が低下して雨天続きであったため、苗の発育が悪く、苗不足を来した。田植や除草などの作業にも、綿入れの野良着を着用し、はだはだしいときには焚火をしながら仕事を続けた。しかし八月中旬から気温が上昇し晴天が続いたが、八月二十三日には三六・三度という猛暑が記録された。だが夏の低温が災いし、反当り四俵から四俵半という不作であった。この年、中新田耕地の排水路のうち一四間圦伏越樋管の改修工事が、政府の補助金を主体に一四万余円で施工され六月に竣功をみた。土地改良事業の施工計画も実現、県土地改良協会と契約が結ばれ十月から測量がはじまった。また同年十一月、越ヶ谷町はじめ二町八ヵ村の大同団結が実を結び、越谷町が成立した。一方世界の動向は、原子力とか水爆とか危険な火あそびが取沙汰されている。文明が進むのは結構だがこの使用をあやまれば、入類滅亡の恐れがある。人類の危機が叫ばれる時代に入ったのだ。また国内では、台風一五号の襲来で、青函連絡船洞爺丸などが沈没し、一四〇〇余名が死亡した。