三十年度は台風の襲来もなく、近年稀な好天気に恵まれ、各地で豊年を祝う豊年踊りが開催された。中新田においても青年団や婦人会の共催で盛大な豊年祭りが催され、太鼓の音が終日部落中に鳴り響いて一同歓喜の念にひたることができた。もちろん供出も苦もなく完納し、中新田は再び表彰の栄誉に輝いた。これも稲荷神社の加護によるものであろう。ちなみに当年の米作り日本一は、富山県の農民で、反当り六石七斗六升、四斗俵にすると一七俵という驚異的な収穫を挙げている。栽培技術の研究と、協同精神の発揚が大切である。
終戦後民主主義によって個人の尊重が主張されるようになったのは、誠に喜こばしいことであるが、ややもすれば自由放慢に流れ、事業経営にあたっても協同精神の欠除のため困難を来し、各地で様々な社会問題を惹起している。幸い中新田の農民は、伝来の美風を継承し、産土神の加護のもとで無事平穏に過している。本年度の土地改良事業も円満に進められ、役員の選定と区画の縄引も完了し、いよいよ着工のはこびとなっている。当年越谷町役場の新庁舎も落成し、はじめての町議選も終って越谷町の発展が約束された。さらに埼玉県でも全国的に稀な近代的な建築で、県庁舎が竣功、同時に新議事堂も完成し、県民挙げての祝賀式が挙行された。
三十一年度は、町村合併三年目に当り、出羽地区では小学校の増築と診療所の新築が施工された。さらに越巻丸の内の新川橋がコンクリート橋に改築されたり、鉄骨の火の見櫓が建設されたりした。このほか旧村道に砂利が敷かれるなど、合併後どうかと懸念されたが、順調に諸事業が実施され、出羽地区の住民は満足している。また二十八年度から発足した出羽土地改良事業は、当年八月改めて土地改良区という組合組織になり、十二月四日に起工式、同五日に鍬入式が行われ、まず神明下から工事がはじめられた。人夫はほとんど改良区内の人びとが動員されたが、初日は四〇五人がこれに参加した。
さて当年の稲作は、苗代時期より天候に恵まれて稲の成育も良好であったが、七月一日から同十日まで雨天続きで気温が下がり心配させられた。だがその後天気は回復し、八月中は高温が続いて昨年同様の豊作が見込まれるほどであった。ところが九月に入ると十月にかけて長雨が続き、低温地域の越巻では平年作を下まわる不作になった。そこで同年七月中に申告されていた予約米の供出が困難となったため、しばしば予約供出量の補正陳情を行なったが、中新田では七五〇俵の予約米のうち二五俵減の補正しか認められなかった。それでも中新田部落は一致協力し、早期の完納を果した。
三十二年度は、稲に二化螟虫が発生したが、農薬の撒布でこれを克服できた。七月下旬九州西部を襲った台風で、西日本では大きな被害をうけたが、当地方ではその影響も少なかったし、九月上旬の冷気も何とか切抜け、まずまずの作柄であった。当年は人工衛星や大陸弾道弾の開発成功で、科学界の一大飛躍が遂げられた年である。また農業も早植栽培上の保温方法や折衷苗代の普及、農薬の普及など、新しい農業技術や営農方式がとり入れられ一段と進歩を遂げた。
三十三年度は天候異変の年であった。すなわち三月二十八日の春雪は一〇センチに達する大雪であったし、さらに晩霜にも見舞われ麦をはじめ畑作物に大きな被害を受けた。一方稲作は旱天が続いて養水にも差支え、田に亀裂が生じるほどであった。また台風の当り年で七月二十三日の一一号台風をはじめ、八月二十六日の一七号、九月十七日の二一号、同二十六日の二二号と相ついで来襲、なかでも二二号は当地方を通過したため、二十四日から豪雨に見舞われ、二十七日には綾瀬川が氾濫、水田は五日間にわたって冠水して不作となった。当年の米作り日本一は、反当り六石八斗二升六合を収穫した長野県の農民であったが、全国的でも四年続きの豊作であった。しかし当地域は、反収五俵から五俵半が普通で不作年であった。
この年、米・ソの人工衛星が打上げられるとともに、ソ連から月ロケットが発射された。国内では衆議院議員選挙が行われたが、中共との貿易間題や日米安保条約の改定、売春禁止法の成立、道徳教育の実施、勤評闘争、警職法審議の空白国会、自・社両党の内紛など、多事多難な年であった。また皇太子の婚約が発表され話題となったが、南極越冬隊の樺太犬「タロー」「ヂロー」の生存も人びとの感激をさそった。当地域では土地改良事業も順調に進み、かつ十一月三日には越谷町に市制が施行され、田園都市づくりの一歩が踏みだされた。