三十四年度は、稲作技術の進歩や農薬の普及で、伊勢湾台風の大被害をうけながらも、全国の収穫高は八〇〇〇万石台を突破する豊作を記録した。当地域では台風による被害が多少みられたが、供米量の補正を受けて早期完納を果した。
当年は、国際的に日本の地位も向上し経済事情も明るく神武以来と称される好景気が展開された。皇太子の成婚式もあげられ、安保条約の改定も調印された。また社会福祉制度の一環として、七〇歳以上の老人に養老年金が支給されることになった。市内では水道施設や下水道工事が進められ、大沢には独立した消防署が設けられた。
三十五年度は、岩戸景気と称され経済事情はいよいよ活気をみせたが、稲作も全国的な大豊作となった。出羽地区の土地改良も最終年度を迎え改良地域二二町歩余のうち九〇%の完工をみた。難航を続けた統合中学西中学校校舎の敷地も土地買収が決定し、教育施設の先行は明るい見とおしとなった。
この年金星ロケットが打上げられ、月旅行も夢ではなくなったが、ラオス、キューバ、ベルリン、アルヂェリヤ、コンゴなどで米・ソの冷戦がはげしさを増した。こうしたなかでケネディがアメリカ大統領に選ばれた。また八月にはローマオリンピックが開催され、日本は体操で団体優勝を遂げた。国内では第二次池田内閣が成立、所得倍増政策により物価は高騰を続けたが、農民はこの所得倍増の恩恵には縁がなかった。また三池炭鉱の闘争や北朝鮮の内地送還間題をはじめ、社会党浅沼委員長の暗殺、日教組小林委員長の暗殺未遂、島中中央公論社長宅の襲撃、さては幼児の誘かいなど、数々の事件がまき起された年でもあった。
三十六年度は、池田内閣の所得倍増政策の推進から、あらゆる物価は急激な上昇を続けたが、ひとり米価だけは取残された。また工場の進出や住宅公団の進出で、土地ブームや建築ブームがまき起こされ、越谷の市街地周辺でも日ごとに変化をみせはじめた。このときにあたり農民は、こうした時代の進行に深く考えさせられるものがあった。
さて本年度の作況は、土地改良の完成第一年目を迎え、用排水とも良好が予測されたが、台風六号の襲来で集中豪雨をうけ、六月二十八日から同三十日の間、大半の水田は冠水し、秋の収穫は絶望とみられた。その後天候が好転し、稲の成育も持直したので安心したが、九月十六日またまた台風一八号に襲われ、稲の倒伏その他の被害にあった。だが予約米は何とか完納できた。なお当年から都市化の波に対応し、例年の行事であった虫追いを取止めることになった。
三十七年度は、六月中旬より長期間の降雨が続いたが、その後高温多湿の天候に恵まれ台風の襲来もなく全国的な大豊作となった。この年出羽地区にも市営上水道が引かれ、同年四月からは越巻から越谷駅までの東武バスの運行がはじまった。国内では同年五月、常盤線三河島駅の二重衝突が突発、死者一六〇名、負傷者四一〇名を数える大惨事となった。またニセ千円札が横行、犯人不明のまま銀行協会では犯人逮捕に一〇〇万円の懸賞金をかけるなど、人びとの関心を集めた。国際的には、ソ連が有人衛星の打上げに成功、地球を四三周して地球に戻った。米国も同じく有人衛星を打上げた。