三十八年度~四十一年度

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三十八年度は、はじめ天気は不順であり、五月頃までは寒暖の差がはげしく、関東北部では降雹などで大きな被害をうけた。当地域でも時ならぬ雷雨に襲われ、天候異変が心配された。その後順調な天気となり台風もなく予期した収穫を挙げることができた。当年は、越谷市内の田園にも日に月に新興住宅や新工場が建設され、色とりどりの文化住宅が田畑の間にみられるようになった。中新田にも末川工場をはじめ、二、三の工場が進出し、すでに操業が開始されている。また出羽地区を南北に縦断する草加バイパス道路の建設もきまり、土地の買収も進められているが、すでに大間野地域で試験的な工事が施工されている。これにともない地価の上昇もいちじるしく、越谷駅付近では一坪当り一〇万円の声も聞かれる。バイパス沿線の水田地域でも、坪一万円で取引されている。やがて出羽地区もその景観が大きく変っていくであろう。

 この年市内一一農協が合併し越谷農業協同組合が発足した。これにともない有線放送事業も出羽・荻島・大袋・桜井・新方・大相模の六放送部を統合したが、全市の有線放送が統一されるのも間近いことであろう。さらに市内一〇校の中学校もつぎつぎと統合されていくが、出羽・荻島の統合校である西中学校の三階建校舎も同年八月に落成をみた。また出羽小学校庭に設けられていた駐在所が校外に移転され、市内最古の校舎といわれる出羽小学校舎が取壊され、近代的な校舎に建替えられることになった。なおこの年、将来にわたる都市化の波を考慮し、永年共同耕作していた部落共有水田二反歩を、一反当り二〇万円で売却、部落の基本財産として保管することになった。この記念として膳腕各三〇組を購入し、部落の共同利用に供すことになった。

 三十九年度は、史上最高の大豊作と予想されていたが、北海道の冷害をはじめ、台風二〇号などの影響で、その予想は下廻り、史上四番目の豊作にとどまった。当地域の作柄は、病虫害の被害もなく、近年稀にみる豊作で、予約米も無事完納できた。この年米・ソの宇宙飛行競争ははげしく、しばしば人工衛星や月ロケットが打上げられた。日本でも三段ロケット一号機の打上げに成功した。国内では東京オリンピックの開催が人びとの関心を集めた。また同年十月一日、最高時速二一〇キロ、平均時速一七〇キロで東京・大阪間を四時間で運行する東海道新幹線が開通した。

 一方この年は天災や人災が数多かった年である。新潟を中心とした六月十六日の大地震、七月中旬の山陰・北陸の集中豪雨、伊豆大島の大火、北海道の大冷害、東京大井の化学品倉庫の大爆発、北海道夕張炭鉱の爆発、そのほか東京都の水飢饉などが挙げられる。また原子力潜水鑑の寄港間題やライシャワー大使の傷害事件、過密都市の解消間題などが社会間題となったが、ことに高度成長下における産業災害として中小企業の倒産が続出し、深刻な間題を投げかけた。当地域では、国鉄武蔵野東線の建設が決定、用地買収に入ったが、草加バイパスの建設も着工され、同時に住宅や工場の進出が目ざましい勢いで波及した。また出羽小学校には理想的なプールが設けられた。

 四十年度は三月から五月にかけて異状な低温続きであり、新聞の報道では大正十五年以来三十九年ぶりの寒い春であったと伝えている。このため苗代の種子蒔は、三日から一週間もおくれたが、苗の成育も悪く、そのうえ五月十一日には降雹に襲われ、早稲苗の葉はちぎられ、晩蒔の苗は流される始末であり、苗代の水は氷のような冷たさであった。その後天候はやや持直したが、苗不足はまぬがれなかった。六月七月は台風八号、九号、一〇号が本州に接近したため、局地的な大雨があったが、およそ平年作の作柄が見込まれた。ところが九月十八日のアベック台風二四号二五号の来襲で、倒伏田が続出し、その被害は甚大であった。

 さて当年の諸物価は、高度成長政策の推進で暴騰を続けており、今後の農業経営は一考を要するところまできた。ことに市内の都市化は急激に進んでおり、なかでも人口の増加が目立ってきた。十月一日に行われた国勢調査によると、越谷市の人口は七万六五七〇人、世帯数は一万七五〇二戸に達し、前年比八五八二人の増加、中新田部落もすでに三九世帯二〇三人の増加をみている。

 四十一年度は、全国的には天候に恵まれ、史上二番目の豊作となり、生産者米価も一五キロ当り一万七八七七円に引上げられた。しかし当地域では六月二十八日の台風四号による集中豪雨で全耕地は二日から五日間にかけて冠水、さらに八月下旬から九月中旬にかけて「セジロウンカ」が大発生した。このため越谷市の水稲平均収穫量一〇アール当り三一七キロを大幅に下廻る収量となった。

 当年は、政治・経済・社会の全般にわたり、とくに悲しみと怒りと絶望でやりきれない一年であった。まず国際的にはベトナムの米兵力は四〇万を数えたが、戦局は決定的な変化をみせずさらに激化の様相をみせている。中国では核爆発の実験が行われた。国内では田中彰治元代議士事件や共和製糖事件など、黒い霧が政界を覆い、政治不信がたかまった。さらに電車・バス・郵便などの公共料金の一斉植上げ、このうち葉書五円が七円に、封書一〇円が一五円になった。空では四件の旅客機事故が発生した。このうち二月四日の全日空東京湾墜落事故には一三三人全員が、三月四日には羽田空港でカナダ航空の着陸失敗によって六四人が、翌五日には英国海外航空が富士山で空中分解をおこし一二四人が、さらに十一月十三日全日空が松山空港沖に墜落して五〇人が死亡するなど、まさに航空界の最悪な年となった。また陸では車のラッシュ、とりわけダンプカーは走る凶器とも称されている。そして同年度の交通事故による死者は一万三二九人に達し史上最高を記録した。ここにも国民は安全対策についての政治不在を感じとり、生命の危機を真剣に訴えだした。なお当地域には四月から武蔵野東線の工事が着工され、農村の景観も大変貌を来しつつあった。

 以上が越巻中新田の『産社祭礼帳』によってみた終戦から昭和四十一年度までの農村状況である。終戦直後は供出に追われながらも、農村景気が謳歌されたが、二十四年頃を境としてドッヂラインの引締政策により農村不況が到来した。その後朝鮮動乱で日本の産業界は飛躍的な活況を呈したが、この時点では農村に大きな変化はみられなかった。ところが昭和三十年代も後半になると、高度成長政策の影響が農村にも浸透、物価の続騰、米価の低滞その他で、農家経営に画期的な転機が訪れた。しかも農村の都市化が進行し、農民の意識にも農業を犠牲とした工業化政策が反映、農業は第二次的な軽い産業と考えられてきた。このように『産社祭礼帳』の記事からも、戦後二十年間にわたる時代のはげしい流れを端的に読みとることができるのである。