越谷の歴史をふりかえって

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 急激な人口の増大と都市化の進展で、越谷市は現在大きな間題をかかえるに至った。すなわち教育施設や福祉施設の拡充、道路・下水の整備、し尿塵芥の処理、そのほか都市化に対応する公共施設の充実など、諸政策遂行のため、市財政は未曾有の困難に直面している。だがこうした財政的な苦悩は、今後の国の施策の在り方や、自治体当事者、および住民の努力によって将来解消されることがらであろう。重要なことは、将来の越谷をどのように建設していくかにあるが、それは住民一人々々の愛着から芽生えた郷土意識によって大きく左右されるといえよう。

 いうまでもなく現在の越谷は、一朝にしておのずから成立したものでない。見田方遺跡に見られるごとく、すでに越谷には遠い古代から住民による郷土の歴史が展開されていた。利根川・荒川など諸河川の乱流する条件の悪い低湿地のなかで、自然とのきびしい戦いに痛めつけられながらも、懸命に郷土を築きあげてきた、祖先のたくましい活動力は、いま改めて見直されねばならぬであろう。

 古代から中世、さらに戦国期と、当地域もしばしば戦乱に巻きこまれ、郷土の荒廃を余儀なくされることもあった。しかし住民はそのつど郷土の生活を復活させ、これを守り育てていった。それは野に生える雑草のような土地への執着と生活力の強さであったろう。この間人びとは、大相模の大聖寺や野島の浄山寺、それに越ヶ谷郷の久伊豆社、その他多くの寺社や板碑を造立するなど、数多くの文化遺産を残した。

 やがて江戸時代、農耕に生きる人びとは、士農工商という身分制度のもとで、農民身分に位置づけられたが、戦国の動乱から解放され、さらに利根川や荒川の大改修によって、新田の開発や農業生産力の向上に努めることができた。出羽地区槐戸新田(現七左・新川・大間野の各町域)や、弥十郎(現弥栄町域)の開発などもその一環である。その後これら新田を含めた越谷地域は、幕府の鷹場に指定され、自然の乱開発が規制されたため、鶴やがんなど水鳥の棲息地としても著名であった。

 また越ヶ谷・大沢は日光街道の宿駅として新たに造成され、交通の要衝に位置づけられたが、同時に近郷商圏の中心地として賑った。それは閉鎖的な社会から開かれた社会への第一歩であり、江戸文化の交流とともに、越谷吾山や越谷山人、さらには江沢昭猷や福井猷貞などのすぐれた文化人が当地域に輩出した。

 この間、領主のきびしい貢租収奪をはじめ、水害、旱害などの自然災害に、定着住民の労苦が続いたが、人びとは見事にこれらに堪え抜き、生産性を高め生活の向上に努めた。こうした農民たちの努力は、やがて余剰作物を生むようになり、自給自足経済を原則とした農村にも、商品経済が展開するようになり、その生産構造や生活様式に大きな変革がもたらされた。

 こうして明治に入ると、統一国家の新しい制度のもとで、行政・財政の上に大きな変化がもたらされた。従来その所有権が領主のものであった土地は正式に個人の所有に移されたが、同時に村単位に課せられていた年貢は、それぞれの個人が個人の責任で納入するように改められた。そして町村には公立の学校や町村役場が設置された。また交通通信の上でも、日光街道には鉄道馬車が走り、ついで街道沿いに東武鉄道が敷設されるなど、近代化が進められた。しかし水郷越谷の自然はもとの面影をとどめており、元荒川や利根川、それに綾瀬川の景観を中心に、大袋や増林の桃林、大房の梅林、それに見田方の蓮華など、すぐれた観光地的憩いの場として、東京などからも一〓を携えた文人墨客の訪れがたえなかった。

 この間、日清・日露の戦いや第一次世界大戦などが勃発し、そのたびに越谷の町村からも多数の戦没者がでた。日本国はこうした度重なる戦争ごとに富国強兵政策を推し進め、庶民の犠牲のもとに工業を盛んにして近代国家に脱皮していった。けれども庶民の生活実態は、その灯火がランプから電灯に変り、その足が人力車から自動車に変っても、依然江戸時代の性格を色濃く残した生活様式を踏襲するほかなかった。中心となるべき工業・商業・学園といった都市的機能が当地域にほとんど存在しなかったからである。また人びとは明治二十三年と同四十三年の大水害を経験し、河川の恐しい側面を改めて見せつけられたが、さらに天候の順・不順による豊作・凶作、あるいは国際的な影響による景気・不景気のはげしい変動に弄ばれて、没落する有力商人や農民なども見られた。

 こうして昭和初期の世界大恐慌を迎えたが、その後満州事変を契機にはてしない戦争の道に入り、日本全土は荒廃の一途を辿った。やがて人びとは戦争から解放された。それと同時に農地解放や教育制度改革が進められ、また地方自治制度の改革も実施された。その後自治体の強化をめざした町村再編成の機運がたかまったが、こうしたその流れに沿って二町八ヵ村の合併による大越谷町が誕生し、ついで越谷市の成立となった。その際の目標としては農村を主体として調和のとれた田園都市の建設が掲げられ、逐次実行に移されていった。しかしながら全日本を蔽う高度経済成長政策の急激な波は、田園都市としての展望を頓挫させた。急激な住宅都市化への展開と、生活様式の一大変化がその後の現実である。当然高度経済成長への批判は叫ばれてはいるものの、今後越谷市の都市化はさらに進行するにちがいない。

 以上越谷の歴史を概観してきたが、一言で越谷の特徴を挙げると、河川を中心とした自然と農業、日光街道を中心とした商業と文化によって支えられてきたといえる。こうした特徴をふまえたとき、将来幾通りかの越谷の中心となるべき機能が考えられよう。たとえば、農業を生産の基軸としつつ、周辺商圏の中心となる魅力ある商業都市の建設、大学・郷土館・資料館・図書館など豊富な文教施設を具えた学園都市への展開、自然の保存とともに河川を主題とした自然園を含んだ公園都市への構想など、その将来展望の夢はつきないであろう。

 いずれにせよこれらの夢を現実に発展させていく力は、郷土を愛してこれを守り育てようとする人びとの熱意にかかっている。しかしこうした郷土の育成も、現在は国政とのかかわりあいが大きく影響し、必ずしも地域住民の意志や希望がその通り反映されていくとは限らない。にもかかわらず歴史は日々造られつつあり、やり直しは許されない。こうした意味で私達は過去から教訓を学びとるとともに、将来の展望をふまえ、現在を大切に考えていく必要があるといえよう。