越谷市の文化財(昭和五十二年二月現在)

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   市指定 有形文化財・建造物

    大聖寺の山門

   指定日 昭和四十二年一月十一日

   所在地 越谷市相模町六―四四二

   管理者 真大山大聖寺

 江戸時代「大相模の不動」と呼ばれ、不動信仰の中心であった真言宗大聖寺の惣門である。惣門左右に一対の仁王像が納められ、堂々たるその偉容は越谷周辺にも数少ないものである。記録によるとこの仁王門は、正徳五年(一七一五)十月の造立であり、文化元年(一八〇四)には屋根は瓦葺に葺きかえられている。なお中央正面に掲げられている「真大山」の額は、もと幕府老中白河楽翁(松平定信)の書になるものである。明治二十七年、大聖寺は本堂をはじめ七堂伽藍ことごとく焼失したが、この仁王門だけが残されて、当時における大聖寺の盛況を偲ばせている。

   市指定 有形文化財・建造物

    宇田家長屋門

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市大成町六―三九六

   管理者 宇田美知

 江戸時代、柿ノ木(現草加市)千疋・別府・南百・四条・見田方・麦塚・東方の八ヵ村は「柿ノ木領」と称され、忍藩の領地であった。この柿ノ木領の割役名主(名主の元締)を世襲で勤めていたのが見田方村の宇田家であり、割役名主に相応した威厳ある長屋門が今でも残されている。建築年代は不明であるが江戸時代の建造物であるのは確かであり、萱葺屋根をはじめその型態なども改造された跡はなく、昔ながらの形が保たれている。門の長さは両袖八間を含め全長一八間に及ぶどっしりした構えで、この種のものでは埼玉でも数少ないものである。

   市指定 有形文化財・建造物

    東方中村家住宅 付表門

   指定日 昭和五十年五月二日

   所在地 見田方遺跡公園

   管理者 越谷市長

 東方村(現大成町)中村家は、代々東方村の名主を勤めた家柄であるが、一時江戸へ退転した。その後再び故郷に戻り、安永元年(一七七二)新たに建築したのがこの家宅である。永い年月の間、部分的に改造された箇所もあり、かならずしも当時の建築様式を示したものとはいえないが、およそ江戸時代の俤をとどめている唯一の建造物である。ことに式台付玄関や一部書院造りの床の間など、名主層の役宅を偲ばせる貴重な文化財といえよう。この家宅は昭和五十年、見田方遺跡公園に移されて復元された。

   市指定有形文化財・絵画

    斎藤豊作遺作「風景」

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市大成町二―一

   管理者 大相模小学校

 画家斎藤豊作は明治十三年(一八八〇)西方村(現相模町)の旧家斎藤家の次男として生まれた。明治二十三年大相模小学校を卒業後、東京美術学校で西洋画を学んだ。大正三年二科会の創立に参加、同会の鑑査員を勤めた。その後フランスに渡り絵画の著作活動を続けたが、昭和二十六年フランスで没した。文化財の絵は、大正四年に斎藤豊作が母校大相模小学校に寄贈したもので、フランスの風景画である。

   市指定 有形文化財・絵画

    鳥文斎栄之画「瓦曾根溜井図」

   指定日 昭和五十年五月二日

   所在地 越谷市越ヶ谷四―二―一

   管理者 越谷市長

 鳥文斎栄之は、天明期から寛政期(一七八一~一八〇一)にかけて活躍した浮世絵の大家で、旗本細田家の出身、喜多川歌麿に師事して絵画を学んだが、ことに美人画を得意とした。この浮世絵のなかには国の重要文化財に指定されたものもある。鳥文斎栄之は瓦曾根村の旧家中村家と懇意であったとみられ、中村家を訪れた際に画いたのがこの瓦曾根溜井の風景画であったろう。鳥文斎栄之の風景画は珍しいもので、その点からも貴重な文化財の一つといえる。なおこの絵は瓦曾根中村家から市役所に寄贈されたものである。

   市指定 有形文化財・彫刻

    安国寺の円空仏

   指定日 昭和五十年五月二日

   所在地 越谷市大泊九一〇

   管理者 大龍山安国寺

 円空は寛永九年(一六三二)美濃国中島郡の生れ、修験僧として各地を行脚したが、数多くのすぐれた仏像を彫刻している。このうち安国寺所蔵の円空作仏像は、楊柳観音坐像、童子立像、善女龍王像の三躰であるが、全国的にも稀にみる逸品であるといわれる。ことに楊柳観音は堅い建築用廃材を使った全国でも数少ない作品の一つであり、他の二躰は全国に類例のない桐材が用いられている。その製作年代から推して、おそらく円空は延宝八年(一六八〇)頃と、元禄二年(一六八九)頃に安国寺に立寄ったと推定されている。

   市指定 有形文化財・工芸品

    野島浄山寺の大鰐口

   指定日 昭和四十二年一月十一日

   所在地 越谷市野島三二

   管理者 野島山浄山寺

 野島山浄山寺の本尊は、慈覚大師作による地蔵菩薩であり、江戸時代子育地蔵として著名であった。ことに安永七年(一七七八)からしばしば江戸の湯島天神をはじめ関東一円に出開帳を行なっており、広く各地に信者を集めていた。これら多くの信者によって天保十二年(一八四一)に奉納されたのがこの鰐口であり、その直径は六尺(176cm)、厚さ二尺、重量二〇〇貫(750kg)、全国でも稀にみる大鰐口である。なおこの鰐口は戦時中軍需物資として徴発されることになっていたが、天井と釣環との間が狭かったため取外すことができず助かった唯一のものである。

   市指定 有形文化財・工芸品

    中町浅間社の御正体

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市中町一〇~六

   管理者 会田太助

 中町浅間神社の御正体は、丸い木型に富士山をかたどった銅板が張られ、裏面に「富土山内院御正躰南無浅間大菩薩、上野介満範」とあり、「本書応永三十三年(一四二六)六月一日、干時文明八年(一四七六)六月一日」との年号と、奉納者とみられる別当中納言阿闍梨良清の名が記されている。おそらくこの御正体は文明八年富士浅間社に懸けられていた御正体を写して造られたものかも知れない。この種のものは数が少なく、その点からも貴重な文化財といえよう。

   市指定 有形文化財・古文書

    北条氏繁掟書

    指定日 昭和四十五年三月二十三日

    所在地 越谷市相模町六―四四二

    管理者 真大山大聖寺

 元亀三年(一五七二)二月、大相模郷西方(現相模町)の古刹大相模不動院(現大聖寺)に宛た北条氏繁の掟書である。戦国期の越谷は、当時敵対関係にあった岩槻太田氏と小田原北条氏勢力の接点にあった。しかしこの時点では北条氏繁が岩槻城主であったとみられ、大相模不動院に対し、前々のごとく岩槻に忠誠をつくすことを命じている。当時の支配関係を知るうえで重要な文書といえよう。なおこの「掟書」は、現存する越谷地域の中世文書ではもっとも古いものの一つである。

   市指定 有形文化財・古文書

    伊奈備前差添書

   指定日 昭和四十五年三月二十三日

   所在地 越谷市越ヶ谷本町五―一九

   管理者 小島才輔

 関東代官頭伊奈備前守忠次が、慶長十三年(一六〇八)五月、徳川家康の御用よくよく勤めた褒賞として、越ヶ谷郷の土豪会田出羽に畠一町歩を贈与したその差添書である、新田開発で屋敷地を贈与されることは当時珍しくなかったが、家康の御用を勤めたことで褒賞されることは少なく、越ヶ谷郷会田出羽の勢威が偲ばれる文書といえよう。ちなみに会田出羽が与えられたこの屋敷地一町歩は、元禄八年(一六九五)の検地で年貢地に組入れられたが、その実坪は三町四反三畝一〇歩であった。

   市指定 有形文化財・古文書

    福井家本陣史料一括

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市大沢一―三

   管理者 福井力之助

 これは安永九年(一七八〇)から、越ヶ谷本町会田八右衛門家の跡役として越ヶ谷宿本陣を勤めた大沢町福井権右衛門家の、本陣関係を中心とした諸史料である。このなかには「往還諸御用留」全五冊その他交通史料や、「越ヶ谷瓜の蔓」「大沢猫の爪」などの地誌類、それに諸事件を収録した記録書などがあり、当時の越ヶ谷宿の状況や交通事情を知るうえに貴重な史料である。これらの書は、主に文政五年(一八二二)に没した福井猷貞の編さんによるものであり、福井猷貞の文化人としての高い水準やその愛郷心がにじみでている好史料といえよう。

   市指定 有形文化財・古文書

    林西寺の朱印状

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市平方二四七

   管理者 白龍山林西寺

 平方の浄土宗林西寺は、もと大善寺と称したが、天正十九年(一五九一)十一月、寺領二五石の朱印状を交付されたとき、寺号を林西寺と改めたといわれる。この二五石の寺領は、越谷地域では西方大聖寺の六〇石につぐものである。朱印状は将軍の代がわりごとに交付されたが、将軍の任期が短かかったり、幕末の動乱で交付しなかった将軍もみられ、徳川将軍一五代のうち一二通揃っているのがすべてである。この朱印状は明治政府に没収されたため、写ししかない寺院が多いが、幸い林西寺には秀忠のものを除き実物一一通が残されている。

   市指定 有形文化財・古文書

    野島山浄山寺の朱印状

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市野島三二

   管理者 野島山浄山寺

 禅宗曹洞派野島の浄山寺は、もと天台宗で慈福寺と称したが、天文年間(一五三二~五五)に禅宗曹洞派に改められている。また天正十九年(一五九一)十一月、寺領三石の朱印状を交付されたとき、この地清浄、山林欝蒼としているとして、家康から寺号を浄山寺と改めるよう申渡されたと伝える。当時の朱印状も秀忠のものを除き、一一通完全な形で保存されているが、このうち家康福徳印の朱印状は「鼻紙御朱印」と称され、家康懐中の紙によって認められたものと伝えている。

   市指定 有形文化財・考古資料

    越ヶ谷御殿町建長元年板碑

   指定日 昭和四十五年三月二十三日

   所在地 越谷市御殿町三番地

   管理者 越谷市長

 越谷周辺から発見されている板碑は、秩父の緑泥片岩によって造られた板状の一石供養塔であるが、塔婆の一種である。このうち御殿町にある板碑は、鎌倉時初発期の建長元年(一二四九)銘のもので、市域で発見された板碑のなかで最古のものである。しかも高さ一五五cm、幅五六cmに及ぶ最も大きな板碑でもある。種子(仏をあらわした梵字)は一仏であるがその彫は深く、初発期板碑の特長をよく現わしている。

   市指定 有形文化財・考古資料

    増林勝林寺の十三仏板碑

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市増森二六八七

   管理者 法恩山勝林寺

 十三仏とは死者に対する初七日から三十三回忌までに至る一三回の仏事供養を掌どる一三の菩薩を現わしたもので、この十三仏信仰が庶民の間にひろまったのは中世も半ばごろからといわれる。現在越谷市域に十三仏の種子を彫った板碑が六基確認されているが、増林勝林寺の十三仏板碑は、天明三年(一四七一)銘のもので、高さ一二〇cm、幅三五cm、完全な形で残されており、この種のものでは代表的なものである。

   市指定 有形文化財・考古資料

    東方桜堂文和二年六字名号板碑

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市相模町桜堂墓地

   管理者 中村頴司

 六字名号板碑は、「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれた供養板碑である。東方(現相模町)桜堂墓地のものは、一遍流の優雅な書体で、文和二年(一三五三)正月吉日の銘がある。高さ八五cm、幅二三cmで完全な形で残されている。この種のものは浄土真宗や時宗系の称名念仏衆徒によって造立されることが多いといわれ、宗教活動の一端を窺うことができるとされている。なおこの板碑は武蔵七党のうち野与党の一族大相模次郎能高の後裔といわれる中村家に伝わるものである。

   市指定 有形文化財・考古資料

    大道の貞治六年七字題目板碑

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市大道三五

   管理者 栗原竹平

 七字題目板碑は、「南無妙法蓮華経」の文字が刻まれた日蓮宗系の供養板碑である。越谷市域には、以前元荒川のなかから引きあげられたといわれる、大道の栗原家保管の一基しか発見されていない。高さ六六cm、幅二〇cm、貞治六年(一三六七)六月廿日の年号銘と、「南無多宝如来、南無釈迦牟尼仏」の銘が刻まれている。

   市指定 有形文化財・考古資料

    東方仲立墓地天文二十二年図像板碑

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市大成町仲立墓地

   管理者 中村喜久三

 図像板碑は仏の姿を絵に刻んで現わしたものである。市域では西方日枝神社と中島道路端、それに東方(現大成町)仲立墓地の弥陀三尊来迎図板碑の三基しか発見されていない。このうち仲立墓地のものは高さ九五cm、幅四二cmで、天文二十二年(一五五三)庚申待供養の銘があり、彫は薄いが完全な形で残されている。この種のものは弥陀信仰と庚申信仰の習合によって現われたものといわれる。

   市指定 有形文化財・考古資料

    東方承応二年庚申塔

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市大成町一―二二五四

   管理者 脇田喜美也

 近世に入ると、緑泥片岩による供養塔板碑が姿を消し、かわって普通石による供養塔が盛んに造立されてくる。このうち庚申塔として最古のものは、この東方(現大成町)の板碑型文字塔である。これは高さ一二六cm、幅四二cmのもので、「承応二年(一六五三)神無月(十一月)吉日、奉供養庚申二世安楽処」の銘とともに施主八人の名が刻まれている。庚申塔はのちには青面金剛彫像塔が一般的になるが、江戸時代初期のものは板碑型の文字塔であるのが特徴である。なかには観音像や地蔵像の石塔に「庚申供養」の銘が刻まれているのもみられる。

   市指定 民俗文化財・有形民俗文化財

    第六天の算額

   指定日 昭和五十年五月二日

   所在地 越谷市下間久里六〇

   管理者 平信夫

 江戸時代の数学を算法あるいは算学と称した。この算法を学ぶ人びとが、算法の問題などを画いた額を絵馬として神社に奉納したのが算額である。記録などを除いては、現存する算額の数は全国でも五〇〇面ほどしか確認されてないといわれる。このうちの一つが下間久里第六天社の算額である。これは埼玉郡新方領下間久里村の高橋要蔵が、文久二年(一八六二)六月に奉納したもので、円周と径などを算定する問題とその解答を示した額である。このほか市域では西方村不動堂に寛政九年(一七九七)斎藤利助が奉納した算額があったといわれるが現在不明である。

   市指定 記念物・史跡

    見田方遺跡

   指定日 昭和四十二年一月十一日

   所在地 越谷市大成町・東町

   管理者 越谷市

 昭和四十一年十二月、及び同四十二年三月の発掘調査によって発見された古墳時代から古代にかけての竪穴式集落遺跡である。この住居跡からは、兎高式土師器をはじめ、こしき・かめ・つぼ・はそう・たかつき・装身具など数多くの生活用具が出士した。埼玉東部沖積底地の開発年代を探るうえに貴重な遺跡であるが、越谷市域ではほかにも遺跡が発見される可能性は強い。なお見田方遺跡からの出土品の一部は越谷市役所二階ロビーに展示されており、住居跡の傍らには見田方遺跡公園が設けられている。

   市指定 記念物・史跡

    清浄院開山塚

   指定日 昭和五十二年一月二十五日

   所在地 越谷市大松六〇

   管理者 栄広山清浄院

 大松清浄院横の古利根川河畔に、東西一三五m、南北一三m、高さ一・八mのよく原形が保たれている円墳がある。寺伝ではこれを開山塚と称している。清浄院の開山僧賢真上人は、宝徳元年(一四四九)に没しているが、同年紀年銘の賢真上人と刻まれた板碑が現存している。昭和四十九年の発掘調査によって、墳丘主体部から人の歯四本、銅銭一枚、鉄釘一本が出土した。この円墳は清浄院の開山僧賢真上人のものかつまびらかでないが、室町時代の塚と推定されている。

   市指定 記念物・旧跡

    越ヶ谷御殿跡

   指定日 昭和四十七年十月二十五日

   所在地 越谷市御殿町

 天正十八年(一五九〇)関東に入国した徳川家康は、鷹狩にことよせて盛んに各地を巡遊し、民情などの視察を行なったが、はじめは社寺や土豪層の家を休泊所としていた。のち街道筋の要衝に家康の別荘ともいえる御殿が設けられていったが、このうち慶長九年(一六〇四)増林城ノ上に設けられていた御茶屋御殿を当所に移したのが越ヶ谷御殿である。家康や秀忠はこの御殿を好み、鷹狩のときはしばしば宿泊を重ねていた。明暦三年(一六六七)江戸城焼失の際越ヶ谷御殿は江戸城二の丸に移されたが、その跡には御守殿蹟と称され、現在にもその御殿の地名が残されている。

   市指定 記念物・旧跡

    千徳丸供養塔

   指定日 昭和五十年五月二日

   所在地 瓦曾根照蓮院

   管理者 秋山長作

 瓦曾根秋山家の祖は、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤であり、その子長慶は天正十年(一五八二)三月、武田氏滅亡の際武田氏の遺児千徳丸をともなって瓦曾根村に潜居した。千徳丸は間もなく早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となってその菩提を葬ったと伝える。寛永十四年(一六三七)秋山家墓地に「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が造立された。これが千徳丸の墓石供養塔であるといわれる。なお長慶の兄虎康の娘は徳川家康の側室となり、おつまの方と称したが、家康の五男武田信吉を生んでいる。

   市指定 記念物・名勝

    久伊豆神社の社叢

   指定日 昭和四十二年一月十一日

   所在地 越谷市越ヶ谷一七〇〇

   管理者 久伊豆神社

 久伊豆神社裏側の社叢は、スダジイ林など原植生を留める珍しい山林であり、スダジイをはじめヒノキ・タブ・ヤブツバキ・サカキ・ニワトコ・ジヤノヒゲなどが地表をおおっている。このような高木層・低木層それに下草などが雑居している植物群は風や小鳥などによって種子が運ばれ自生したとみられるが、これらが定着できたのは、社林の一部が伐採されたためともいわれる。

   市指定 記念物・天然記念物

    林泉寺駒止の槇

   指定日 昭和四十二年一月十一日

   所在地 越谷市増林三八一八

   管理者 正林山林泉寺

 林泉寺境内の槇は、幹廻り一・九五cm、樹高一〇m、樹齢およそ四〇〇年、整った枝葉は見事なものである。伝えによると、徳川家康が鷹狩のとき、この槇に馬の手綱を結んだといわれ、駒止の槇と称されている。

   市指定 記念物・天然記念物

    中町のたぶの木

   指定日 昭和四十二年一月十一日

   所在地 越谷市中町八―二六

   管理者 有滝龍雄

 幹廻り四・三〇m、樹高一七m、樹齢およそ四〇〇年、クスノキ科の常緑高木である。

   市指定 記念物・天然記念物

    らくうしよう

   指定日 昭和四十二年一月十一日

   所在地 越谷市越ヶ谷二五六六

   管理者 アリタキ・アーボレータム

 昭和二年にパリから種子を購入播種したもので、分布はアメリカ南部からメキシコ、水湿地を好む落葉性針葉樹である。

   県指定 有形文化財・考古資料

    増森薬師堂二十一仏板碑

   指定日 昭和三十六年三月一日

   所在地 越谷市増森一七七五薬師堂

   管理者 小島松之助

 高さ一五三cm、横四六cmの緑泥片岩で造成された塔婆で、「天正三年(一五七五)八月吉日、申待供養」の銘がある。二十一仏とは種子(しゅじ)が二十一仏刻まれている板碑で、山王二十一社信仰の習合によって現われたものといわれる。この種の板碑は全国でも三九基しか発見されてないが、いずれも埼玉県東南部に集中している。このうち市内で八基確認されているが、増森の板碑は完全な形で残されており、その代表的なものである。

   県指定 無形民俗文化財・民俗芸能

    下間久里の獅子舞

   指定日 昭和三十七年三月十日

   所在地 越谷市下間久里香取神社

   保持者 下間久里獅子舞連中

 下間久里に古くから伝わる獅子舞で、千葉県野田市清水の香取社が元禄四年(一六九一)春日部市銚子口香取社が元禄十年(一六九七)そのほか春日部市赤沼、庄和町中野などの香取社が下間久里から獅子舞を伝授されたと伝える。ことに利根川流域には太夫獅子・中獅子・女獅子三頭一組の三匹獅子舞が数多く分布しているが、このうち下間久里の獅子舞はもっとも素朴で原初的な形態を残しているといわれる。なお下間久里香取神社の例祭は七月十五日であるが、この日に獅子舞が行われる。

   県指定 記念物・天然記念物

    久伊豆神社のフジ

   指定日 昭和十六年三月三十一日

   所在地 越谷市越ヶ谷一七〇〇

   管理者 久伊豆神社

 久伊豆神社境内の藤は、樹齢およそ二〇〇年といわれ、埼玉県内では春日部市牛島の藤につぐ大木である。この藤は根元から七本の枝にわかれ、株まわり約八m、枝葉は東西二〇m、南北三〇mにわたり、例年五月上旬には長さ約一mにわたる花房をつける。なお社伝によると、この藤は文化年間(一八〇四~一八)平田篤胤の門人が、下総国(現千葉県)流山から移植したものといわれる。

   県指定 記念物・旧跡

    平田篤胤仮寓跡

   指定日 昭和三十八年八月二十七日

   所在地 越谷市越ヶ谷一七〇〇

   管理者 久伊豆神社

 幕末期の国学者平田篤胤の門人は、利根川流域を中心に数多くいたが、このうち文化十三年(一八一六)から同十四年にかけて越ケ谷町からも三人の門人がでている。ことに篤胤はその著書「古史徴」の刊行費を越ケ谷町の門人から借用したり、その後妻おりせを越ケ谷町から娶っていた関係で、しばしば越ケ谷を訪れていた。そして文政三年(一八二〇)には久伊豆社に絵馬額「夫の岩戸開之図」を奉納している。しかし篤胤の仮寓といわれるこの建物の設置年代その他は不明である。

   国指定 記念物・天然記念物

    越谷のシラコバト

   指定日 昭和三十一年一月四日

   所在地 越谷市一円

   管理者 越谷市長

 シラコバトの特徴は、色が淡褐色で首のうしろに黒い輪がある。翼の長さは一六cmから一八cmでキジバトより小柄であり、「鳩ポッポ」の童謡にうたわれたモデル鳩ともいわれる。この鳩は全国でも越谷市内を中心に生息するが、戦後乱獲されて絶滅の状態になったときもある。現在は保護措置が講ぜられ、その数は飛躍的に増大している。なおシラコバトは昭和四十年に埼玉県の県鳥に指定された。