旧記(上巻)解説

本史料は、武蔵国埼玉郡八条領西方村(現越谷市相模町など)に残された、和綴本五冊からなる西方村の事歴を中心とした村史資料の編さん書である。この冊子には表題はないが、各冊子とも青色の厚紙で装丁され、その「地」の部分に「往古ゟ旧記壱」「享保四亥ゟ旧記弐」「明和二酉ゟ旧記参」「寛政六寅ゟ旧記四」「文政元寅旧記五」と記されている。本編にはこのうち「壱」から「参」までの冊子を収載したが、「四」「五」ならびに同時編さんとみられる「触書」旧記のうち(上)を本史料編の「中巻」に収める予定である。

 この史料編さん書を残した西方村は、武蔵国埼玉郡八条領に属し、江戸からの行程およそ五里、元荒川に沿った古くからの集落で、もとは大相模郷のなかに含まれていた。江戸時代の村高は一五四〇石余、戸数は江戸後期一六〇軒の大村で、村内は五組(寛政五年までは四組)に分かれ、組毎に名主が置かれていた。支配関係は、はじめ高六〇石の大聖寺領を除きすべてが幕府領であったが、寛文十一年(一六七一)村高のうち一七三石余が旗本万年佐左衛門の知行地に宛てられた。次いで延宝七年(一六七九)万年領と大聖寺領を除いた総村高は古河領の飛地に編入されたが、元禄十年(一六九七)幕府領に復し、以来幕末まで幕領、万年領、大聖寺領の三給所であった。

 この間西方村は、元禄九年日光道中越ヶ谷宿の大(定)助郷村に指定され、助郷課役を勤めていたが、その間西方村は地元瓦曾根溜井廻りの諸役過重を申し立て、助郷免除を訴え続けていた。この結果享保十一年(一七二六)助郷村の組替え再編成にあたり、西方村は助郷を免除された。ところが助郷を免除された西方村の代り助郷村に指定された三ヵ村が、これを不服として再三にわたり西方村を助郷差村として助郷免除を願い出た。そのつど奉行所で激しい争論がくり返されたが、いずれも西方村の勝訴で落着した。しかし寛政十一年(一七九九)の争論では西方村は敗訴となり、村高一五三〇石余のうち三一三石が助郷勤高に組入れられた。これを不満とした西方村は、さらに助郷免除の訴願を続け、ついに文政五年(一八二二)の争論で助郷全高免除の奉行所裁許に成功した。

 このように助郷課役をめぐり特殊な立場にあった西方村は、古来からの経験に基き、将来再び他村からの助郷差村を受けることが予想されたとみられる。そのときは従来からの助郷争論に対する証拠書物や訴訟手続、あるいは奉行所での論争経過や奉行所派遣の論所地改役人に対する応待などを熟知して、これに対処する必要を痛感したに違いない。こうして助郷争論に際し、証拠物件として広く収集された古文書や記録類を、後世の村人のため集大成して残したのが「伝馬」旧記天地二冊であったとみられる。即ちこの「伝馬」旧記の冒頭に記された目録(目次)の末尾には「右御伝馬一件古来ゟ証拠書物、今般村役人立合之上相改書留置候処、少も相違無御座候以上」とあって、文政五年(一八二二)十二月の日付けで西方村名主・年寄一〇人の名が連記されている。したがってこれは個人の恣意的な編さん書でなく、村の事業として後世のために書き留められたものであるのが知れる。その成立も文政五年であるのが確められる。おそらく西方村ではこの伝馬旧記の編さんにあたり、村内の史料だけでなく近隣町村の旧家を訪ね、広くその証拠書類や諸記録を収集したとみられるが、この過程で伝馬史料とともに触書をはじめ、水利・鷹場・災害・騒動その他さまざまな史料が収集されたのはいうまでもない。これに対し西方村役人のある識者は、折角収集された数多くの史料を放置するに偲びず、伝馬以外の諸史料を「旧記」と「触書」に分類のうえ、編年による編さんに着手したとみられる。こうして「旧記」は「壱」から「五」までの五冊、「触書」は上、中、下の三冊にまとめられた。その成立年代はつまびらかでないが、「触書」史料の下限が文政九年(一八二六)であるので、旧記を含めおよそこの頃の成立とみて差し支えなかろう。このうち「伝馬」旧記は『越谷市史四史料(二)』に全文収録したが、旧記は諸般の事情から目録のみを掲げた。

 さて本編には「旧記」五巻のうち紙数の都合により「壱」「弐」「参」の三巻を収録した。このうち「往古ゟ旧記壱」は、前半が葛西領(現葛飾・墨田・江戸川の各区)、谷古田領(現草加市など)淵江領(現足立区など)、など西方村下郷数万石の用水元である瓦曾根溜井にかかわる史料や記録である。まずこれには瓦曾根溜井記と題して、その沿革を述べた序文を掲げ、溜井を中心に古利根川・中川・元荒川・綾瀬川、ならびに各用水路におけるそれぞれの改修推定年限を付した詳細な絵図を載せている。その上で各用水路などの成立事情や古来からの沿革・事歴が古文書とともに収載され、それぞれの変革などの因果関係が克明に解説されている。しかも瓦曾根溜井から引かれた西葛西用水路・谷古田用水路・四ヵ村用水路・本所上水道などの成立年限や改廃などについては、西方村はじめ近郷の伊原・登戸・上馬場など各村における慶長年間からの年貢可納割付書を載せ、その史料の分析によってそれぞれの成立年代や堀幅、ならびに改廃などの年限をみきわめる実証的研究がなされている。なかには史料の制約上、越ヶ谷町天嶽寺前の元荒川直道改修などのように、単に推測のうえで記されたものもあり、全てが必ずしも正確とはいえないものの、多くは史料に基いて考察が進められている貴重な記録といっても過言ではなかろう。ことに各河川の藻刈組合の発端や、普請仕法の変遷、葛西用水路の成立、綾瀬川排水路の成立、その他溜井堰や用水堀の詳細な事歴は、江戸時代の河川や用水の実情を知るうえで貴重な史料を提供しているといえよう。

 また「壱」の後半には、越ヶ谷郷の土豪会田出羽家の系譜を掲げ、さらに徳川家康越ヶ谷周辺鷹野の言い伝えなどを載せ、興味ある記事になっている。ことに八条領各村における支配者の姓名や支配年限、土井領や古河藩堀田領の支配年限や上知年限などの記載は、現越谷市ばかりでなく他の関係市域においても参考になるものであろう。要するにこの「旧記」史料は、単に史料を編年して収録したにとどまらず、関係史料を一括して掲げ、さまざまな面から実証的な考察を進めているという特徴があり、それだけに貴重な記録といえよう。

 次に「享保四亥ゟ旧記弐」に収められている史料を大きく分けると、鷹場関係・年貢関係・村勢関係・水利組合関係・水害関係・用悪水争論関係などに分けられる。ことに西方村は御挙場と称された将軍家鷹場であったが、隣村瓦曾根村は紀伊家鷹場、しかも溜井の差配役であったため、鷹場の境界や溜井圦樋の差配をめぐりしばしば争論が展開されていた。これら争論などから複雑な鷹場の支配関係をさぐることも可能であろう。このほか元荒川や古利根川の藻刈の発端、将軍日光社参における人馬勤方の心得、本所上水道跡の新田再開発、用水触次役の沿革、囲籾の一件など、それぞれの研究分野で参考になる史料が数多く収められている。

 次に「明和二酉ゟ旧記参」には、油絞りや酒造の冥加永のこと、瓦曾根河岸船問屋発端から河岸場取立争論の経過などにかかわる一件史料、拳場境の吟味一件史料、新規貯穀の発端から貯穀仕法についての一件史料、さらには西方村が一村出入の結果四組から五組に組分けされた事情、ならびに組分けの際の反別記載など、研究に価する興味ある記録が数多く収められている。