西方村「旧記(四)(五)」ほか収載史料について

本史料集は、昭和五十五年度に発刊をみた「越谷市史続史料編(一)」に続くもので、続史料編のその(二)にあたる。

本書への収載史料は、続史料編(一)に収められなかった西方村の「旧記」のうち(四)と(五)、それに「大龍山東光院安国寺記録」「迎摂院寺格留記」「大林尼寺旧記并規定」の比較的まとまった寺院関係の史料、さらに御用留帳の一種である東方村の「諸願訴届控」の六編を収めた。

このうち西方村の「旧記」(四)(五)は、すでに発刊をみた「旧記」(一)(二)(三)に引き続き、寛政六年(一七七四)から文政九年(一八二六)に至る西方村(現相模町)を中心とした一件記録である。西方村を中心にと言っても、内容を一覧すれば解るように、本書は西方ばかりでなく八条領の各村々その他の領域にも及ぶ広範な地域を対象としたものである。しかも史料を使って実証的な考察が加えられかつたんねんに編集されている点がこの旧記の大きな特徴といえる。西方村の概況ならびに史料の位置づけは前回の解説にふれたのでここではふれないが、本書の主な史料項目をみると次の通りである。

鳥見による寛政六年からの農間渡世人調べ一件、鷹匠による場所違い鶴捕獲一件、戸田筋鹿狩り人足勤方一件など、鷹場村の具体的な実態が知れる鷹場史料、葛西用水組合、八条領普請組合、瓦曾根溜井組合その他用悪水自普請組合に関する詳細な水利組合記録、年貢増徴のため文政元年(一八一八)から同七年にわたって実施された見取検見の一件記録、ことにこの検見の記録には、検見に対する村の対応をはじめ、検見の手続きやその経過などが克明に記されている。このほか文政五年の地誌調べ一件記録や、年貢米永増減記録など、さまざまな面でそれぞれの研究に参考になるとみられる史料が収められている。

また享和二年(一八〇二)の関東洪水一件、文化五年(一八〇八)の冷雨凶作一件、文政四年(一八二一)の旱魃一件、文政六年の旱魃・出水・大風一件、文政七年の川々出水一件、文政九年の旱魃一件など、これら災害時の模様やその経過がよく知れる興味ある史料もみられる。また西方村念仏講中仕来りの改変など民俗的な行事に関する記述などもある。これらは原史料を中心としたものだけに、説得力のある記録になっているが、そのうえ読みやすいように、理解されるように工夫された編集上の配慮がなされている。いずれにせよ本史料によって、従来わからなかった点も解明される部分が少なくないと思われる。

また本巻に収めた「諸願訴届控」は西方村の隣村八条領東方村天保五年(一八三四)の御用留帳に類するものである。東方の村高は一〇八九石余の比較的大きな村で、当初は幕府領、その後旗本領などに組み込まれたが、元禄十一年(一六九八)から忍藩領に組み入れられた。当地域の忍藩領は南百村・四条村など八か村で通称柿木領八か村と呼ばれた五千石余の忍藩の飛地であったが、この八か村の元締ともいえる割役名主は、見田方村の宇田家が世襲で勤めていた。したがって八か村の訴願や諸届けは宇田家に提出されることが普通であった。西方村の「旧記」とあわせみることで、当時の八条領村々の様子の一端をより深く知ることができるであろう。

このほか「大龍山東光院安国寺記録」は、表題の通り大龍山安国寺の記録である。その主な記録には入院にあたっての本寺への御礼式や入院時の諸行事、日月牌料金の定め、隠居の定め、安国寺諸末寺住職の控、十夜の控、制条の掟、開基歴数の控など安国寺の仕来や寺院の沿革などが記述されている。ちなみに安国寺は誠誉専故上人による寛正二年(一四六一)の中興開山を伝える現越谷市大泊の地にある浄土宗の古刹である。江戸時代は寺領高四石を与えられた朱印寺で岩槻浄安寺の末寺、その後貞享四年(一六八七)本未寺院の組み替えが行われ本寺浄安寺は浄土宗十八檀林の一寺岩槻浄国寺の支配下に組み入れられたが、安国寺もまたこのときから浄国寺の支配のもとに置かれた。

「迎摂院寺格留記」は真言宗四町野村(現宮本町)の越ヶ谷山迎摂院が、檀林格僧衣薄黄色三色着用の格式を許されたときの一件記録である。本史料によって、従来からの寺格を昇格させることは、本寺や法類との関係その他でいかにむずかしいことであったか、またいかに煩雑な手続きを要したか、さらにはいかに金銭を必要としたかを知ることができる。ちなみに迎摂院は僧賢栄による天文四年(一五三五)の中興開山を伝える真言宗の古刹である。江戸時代高五石の寺領を与えられた朱印寺で、越ヶ谷町の郷社久伊豆神社や同じく中町浅間神社の別当寺でもあった。さらに中嶋(現岩槻市末田)金剛院の筆頭末寺でもあった。

「大林尼寺旧記并規定」は、現越谷市大林の曹洞宗大林寺における開基とその経過にまつわる一件記録である。大林寺ははじめ五霞村天王山東昌寺大震和尚の隠居寺として享保五年(一七二〇)にとりたてられた庵室で、大林庵と称されたが、その後寺院の経営上尼僧が住職し尼寺と称された。

この大林寺境内には延享年間(一七四四~四八)大震和尚によって秋葉神社と稲荷神社が勧請された。このうち秋葉神の信仰はこの地域にもひろまり、信者による秋葉講が結成されたが、これにともない秋葉本社への代参が行われるようになった。当寺にはこの秋葉講の代参に関する史料があったので併せてこれを収めた。このほか当地に関した史料ではないが、五霞村東昌寺門前百姓の諸役免除願にかかわる争論一件史料が大林寺に残されていたので、参考までにこれも収めた。

おわりに史料を提供していただいた大泊安国寺、宮本町迎摂院、大林大林寺、大成町中村家に対し厚く御礼申し上げる次第です。