本書には西方村(現相模町)の旧記「触書」と、蒲生村の「御用留」を収録した。このうち「触書」は江戸時代西方村で編さんされた歴史史料集「伝馬」「旧記」「触書」のうちの触書にあたるもので、伝馬や旧記と同じく青表紙で装丁された●●●三冊の和綴本からなっている。その●の底書には「天和三亥ゟ触書上」と記され一九九か条の触書廻文が収められている。●には「享保八卯ゟ触書中」とあって二一八か条、●には「安永三年ヨリ触書下」とあって文政九年(一八二六)までの二一二か条、計六二九か条にわたる触書廻文類が収められている。
これら西方村の史料編さん書に収められた諸史料は、西方村五組の各旧家ばかりでなく、登戸村(現越谷市)や青柳村(草加市)、西袋村(八潮市)の旧家を訊ね収集されたものだが、触書史料は主に御用留類から抄録されたものである。触書一か条ごとに何処の史料であるか出典が示され、さらに赤字で表題が記されているなどよく整理されている。西方村は瓦曾根溜井の地元にあたり、溜井差配役の重役を訴え、古来から助郷課役の免除をめぐってしばしば他村とはげしい争論を展開していたが、文政五年(一八二二)の争論で助郷課役全高免除の奉行所裁許(判決)に成功した。
これら広範な地域から収集された史料は、おそらくこの助郷争論の際、その証拠書類として古来からの伝馬史料を集めたものに違いない。一件落着後西方村の一識者は、将来の助郷争論にそなえ、この伝馬史料を書き写し二冊の和綴本にまとめて後世に残した。なおこの「伝馬」記録はすでに『越谷市史史料編(二)』に収録ずみである。この間伝馬関係以外の諸史料も数多く集められたが、識者はこれをすべて書き写し、その種類によって「旧記」と「触書」に整理分類したうえ和綴本に装丁して「伝馬」記録とともに世に残した。このうち「旧記」は『越谷市史続史料編』(一)と(二)に収録ずみだが、残りの「触書」が本書の史料である。
もとより触書には老中触や勘定奉行触など幕府からの一般的な布達が多いが、これが編年で編集されているだけに、その時代時代の政治的な流れや、世相の一端を知るのに便利であるという特徴がある。たとえば五代将軍綱吉治政の貞享四年(一六八七)ごろから元禄十六年(一七〇三)ごろにかけては「生類憐み令」にもとずく法令が頻繁に顕(あら)われてくる。さらに元禄から正徳年間(一六八八―一七一五)にかけては金銀改鋳にもとずく取扱方の布達が目立ってくる。
また八代将軍吉宗治政の享保元年(一七一六)以降、鷹場の復活にもとずく鷹場関係の布達が多くなるが、この間に年貢増徴政策の一環である定免制の公触や、用悪水普請関係の公触、その他郷蔵取立などの布達が散見される。次いで明和年間以降(一七六四)各地で一揆騒擾が頻発するようになると、徒党・強訴の禁止触、ならびに水害の多発による普請触、あるいは商品作物の普遍化による菜種・穀物などの売買規制触、治安の乱れにもとずく無宿者や浪人、それに博奕の取締触が多くなり、その時代時代の特徴の一端が窺えられる。
このほか触には代官が独自に発する代官廻状、鳥見や鷹匠などが発する鷹場役人廻状、用悪水方役人や普請役役人が発する廻状などがあるが、これらは地域に密着したものだけにその具体的な様相が知れるものが多い。ことに本書には年貢増徴や社会秩序の回復に意欲を燃やす代官吉岡次郎右衛門の、代官廻状が数多く収められており興味あるものといえる。さらに本書には寺社奉行が発する寺院・神社の勧化御免触が数多く収められているが、これらも寺社の研究者には参考になるものと思われる。なおこの触書を「旧記」の記事と合わせみることで、その時代の移り変りや幕府の対応がより具体的にとらえられるはずである。
また蒲生村の「御用留」は、慶応四年(一八六八)から明治三年までの年次ごとにまとめられた三冊からなる和綴本である。主に維新政府が発した布達類を書き留めたものだが、明治維新期の政権交代にあたる一大変革期のものだけに、当時のあわただしい様相を知るうえでまたとない好史料といえる。ちなみに慶応四年一月鳥羽伏見の戦で薩長軍に敗れた将軍徳川慶喜は、海路江戸に逃げ帰り東叡山に蟄居謹慎したが、薩長軍は諸藩とともに東征軍を組織し、同年三月江戸に入り事実上政権を掌握した。
はじめ江戸に入った官軍は幕府機構を利用し地方の統制には引続き旧幕府の代官を任じたが、当地域の代官は佐々井半十郎が引続き大政官布告などの触を通達していた。この間地域村々でもっとも困難をきわめたのは政権交代時の無警察状態に置かれた治安の乱れだったが、幕府脱走兵の討伐に追われる官軍は、村々の治安維持にまでは手が廻らなかった。このため官軍は旧幕時代の治安取締り組合を利用し、自主的な取締りにあたらせたが、しばらくは強盗殺人などの犯罪が跡を断たなかった。
また維新政府は慶応四年四月旧来からの慣例であった神仏の混淆を禁止する神仏分離令を発したため、別当として神社を差配していた寺院をはじめ檀家の混乱は予想以上のものがあった。こうしたなかで同年六月当地域の支配は旧幕代官佐々井半十郎に代わり忍藩士の山田一太夫が武蔵知県事として民政の執行にあたった。次いで同年七月には江戸が東京と改称されたが、八月には山田一太夫に代わり旧幕の旗本桑山圭助が知県事に任ぜられた。続いて同九月には慶応が明治と改元され同十月には明治天皇が江戸城に入って宮城と改められた。このころには会津戦争も終結し維新政府の基礎も固まりつつあった。
次いで明治二年一月には当地域に小菅県と大宮県(後の浦和県)が誕生したが、越谷地域はおよそ北と南に二分された。このうち越ヶ谷・大沢・蒲生などは小菅県に、袋山や大竹・大道・荻島などは大宮県に所属したが、当時小菅県知事は宮津藩出身の河瀬外衛、大宮県知事は名古屋藩出身の間島冬道が任ぜられていた。こうして行政機構も少しづつ近代化に向かって整備されていき、明治三年には寄場組合が御用会所と改称され、伝馬制度も大幅に改正されていった。同時に寺社の朱印地などに対する上知令の準備や郷学校の設立など、あわただしい政治の改革動向が続いた。
本書はこうした明治四年の廃藩置県(埼玉県の成立)以前の混乱期における御用留であるだけに、その間の経過を知るうえで興味ある史料といえる。