○ 享保七寅年
(朱書)
「紀州熊野三所権現様縁記、其外勧化御免之儀ニ
付厳重ニ御定書」
紀州熊野三山社頭宮殿類破に及ひ、多年興復之儀奉
願之処、享保六年十一月社家之輩江戸御城江被召金
三千両御寄附有之、其上日本国中勧化すへき之旨被
仰出則勧化之状を下し給ふ、其文左ニ記ス
勧化之状
熊野三所権現は日本国昔より干今至迄貴賤たつとひ
あかむる事他に異なり、今度修復之事有に依て公儀
よりも御寄附之品有之也、信向之輩其分限に応し物
之多少を論せす寄進すへき旨被 仰出畢、猥ニすゝ
めこふへからす、右之趣万民宣しく承知すへき者也
享保六年十一月 酒井修理太夫印
牧 野 因 幡 守印
松 平 対 馬 守印
土 井 伊 予 守印
抑当山三所は上古
伊弉冉尊正しく御鎮座之地にして伊弉諾尊を合セ祭
れり、此神は我朝陰陽男女の始上下万姓の祖なるに
依て、日本一大霊験所根本、熊野三所権現と勅額を
下し給ハり最上の霊社として上は 天子を始奉り下
庶民にいたるまて崇敬掲位の浅からさる事、旧記に
つたへて世間の所知也、今に至迄人倫道正しく内外
安全に子孫繁栄ならしめ給ふも皆是此神之恩徳によ
れり、しかあれハ其霊験を給ひて深山倹岨をよち、
雲をふミ嵐をわけてあゆミをはこひ、浦のはまゆふ
いくへの浪路をしのきて参っとへる人絶る事なし、
心かし今牛王を以て天下の起請を守り信を立偽を正
す事神威の感応則欺かたき所なり、すへて霊瑞掲政
の事不及記之、今猶信心の誠あらは自家の寿福家門
の安栄何そ当磐賢磐之擁護なからんや、依て勧化之
趣如件
享保七年壬寅年二月 熊野三社
社家中
一紀伊国熊野三山之社頭修復ニ付て諸国勧化之儀被
仰出候、依之御料幷万石以下給所之分、其外寺社之
輩江御代官ゟ奉加帳相廻事ニ候間其旨可相心得候
一奉加帳請取候ハゝ、其所之名主庄屋村中之男女不残
様ニ奉加帳之趣とくと触聞セ可申、其上ニて右帳之
奥其村〻名書有之所ニ名主庄屋名印を致、寄進之品
有之候ハゝ肩ニ可書付、寄進無之村ハ点をかけ次〻
の村江可相廻事
右名印仕様案紙遣し候事
一不及申候得共、寄進之多少構なく志之者ハ一銭ニて
も可差出事
一志之無之者ニ人別、又ハ高かゝり奉加出させ候儀堅
無用ニ候、万一押て奉加出さセ候ハゝ名主庄屋可為
曲事事
一名主庄屋麁末ニて触残し候ハゝ、是また越度たるへ
き事
一奉加致候もの之名又ハ心さしの意味銘〻書付不及候、
金銀米銭一所ニ取集指出候節、村中奉加何ほとと惣
高ニて可差出候、但並をはなれ奉加心さしの品幷名
を顕候様ニ仕度ものハ勝手次第之事
右書付之認様安紙遣し候事
但奉加帳迫り候節ハ、村中志之もの無之村〻名主
点かけ候て、其後奉加之志出来候ハゝくるしから
す候間、手代方へ奉加持参可致事
一所〻奉行附幷万石以上之領と寺社領と分ケ郷有之分
除之、其外寺社之分ハ御代官江奉加金銀米銭取集筈
ニ候間奉加帳可相廻候、且寺社領にても名主庄屋之
分ハ百姓共ニ申聞候儀諸事其領之名主庄屋可取計事
一分ケ郷有之村ハ一給ことに其名主庄屋可取計事
奉加帳奥之認様
奉加有
何村 誰㊞
奉加有之村ハ右之通可相認事
――――
何村 誰㊞
奉加無之村ハ右之通可相認事
奉加之金銀米銭手代迄差出候節之書付認様
金銀米銭ニても
何程 何村中
外ニ名を顕度存候もの有之候ハゝ
右之外志シ品書候ハ此所ニ可書
何程 誰
月日 何村名主
誰印
右之通可相心得候以上
寅六月 御勘定所
今度紀州熊野三山之勧化有之ニ付、奉加帳幷御勘定
奉行中ゟ書付相廻し候間、一村ニ二日ヅツ留置村中
触聞セ、相済候ハゝ次〻村へ可相廻、但廻り留り之
村より大沢町へ可相返候、右村〻ゟ志ニて差出候金
銀米銭為請取、武蔵国埼玉郡大沢町ニ家来差出置候
間一村切ニ取集候、金銀米銭何れ成共八月十七日ゟ
同十九日迄ニ大沢町へ致持参家来ニ可相渡候、家来
方ゟ金銀請取之書付村へ出之筈ニ候以上
寅六月十七日 伊半左衛門
役 所