越谷の沿革概要

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越谷市の成立

 越谷は、町村合併促進法にもとづき、昭和二十九年十一月三日、越ヶ谷町・大沢町・桜井村・大袋村・新方村・荻島村・出羽村・増林村・蒲生村・大相模村の二町八か村が統合されて成立した町である。さらに翌三十年十一月三日には、同年八月一たん草加町に合併した川柳村のうち、伊原・麦塚・上谷の大字が境界を変更して越谷町に編入され、越谷町の面積は五九・七三平方キロメートルになった。その後昭和三十三年十一月三日、越谷町は市制に関する臨時措置法の適用をうけ、全国では五四三番目、埼玉県内では二二番目にあたる市制を施行した。当時の人口は四万八三一八人であった。

古代・中世の越谷

 越谷は埼玉県東部のうち武蔵野台地と下総台地にはさまれた沖積地の一角を占めているが、西の境界には綾瀬川、中央には元荒川、東の境界には古利根川が貫流している。当地はかつて東京湾の入江のなかにあったが、その後海退現象が起こるとともに、荒川(現元荒川)・利根川(現古利根川)・渡良瀬川(現江戸川)がこの入江であった底地に集流し、上流から運んできた流送土砂の堆積で沖積層陸地を造成させた。

 ことにこれら河川の河畔には、発達した自然堤防が形成されたが、人ぴとはこの堤防上に集落をつくり、堤防の後背にひろがる湿地を開発して稲作農業を展開させた。この時期は上流と下流ではかなりのひらきがあるが、越谷地域に人びとの生活がはじまったのは、昭和四十一年から二年にかけて発掘調査された見田方(現大成町)住居跡の出土品その他から、およそ古墳時代から奈良時代にかけてのことと推定されている。当時は大和朝廷が全国を統一し、国ごとに国司・郡司を置いて、公地公民を原則とした律令制度(六四六~)の徹底がはかられていた。

 このとき越谷地域は、現在の元荒川を境に武蔵国と下総国に分けられていたが、このうち元荒川の右岸武蔵国に属した越ヶ谷・大相模などは、佐伊太末(埼玉)郡のうち余戸郷に属したともいわれる。こうしたなかで、西方(現相模町)の不動院(現大聖寺)は天平勝宝二年(七五〇)、野島の慈福寺(現浄山寺)は貞観三年(八六一)という古代の創建を伝えている。

 その後荘園などの発生で律令制度がくずれ、郡制・郷制は自然消滅していったが、これに替わり、地方の有力者を中心とした私的な郷村が形成された。越谷地域でも八条郷・大相模郷・越ヶ谷郷などがみられるが、これらの郷にはその郷名を姓とした郷の領主的な武士層が現われている。武蔵七党のうち野与党の一族といわれる越ヶ谷氏・大相模氏・八条氏・野島氏などがそれである。

 当時の郡庄名は、荒川(現元荒川)を境にその右岸は、武蔵国崎西郡と呼ばれたが、その左岸は下総国下河辺庄新方郷と呼ばれた。この地域の特色としては、古代における神社分布を挙げることができる。すなわち綾瀬川を境とした足立郡には氷川社、その左岸から荒川の流路を境にしてその右岸が久伊豆社、またその左岸は香取社と明確な分布区分をみせている。これは荒川や綾瀬川を画して、その文化圏・勢力圏が明瞭に区分されていたことを示すものであろう。

 やがて源頼朝の台頭により武家の政権が確立されると、諸国には守護や地頭が置かれ、鎌倉には幕府が開かれ、原則として公地公民であったもの、あるいは荘園の土地や領民であったものは、有力な武士層によって浸蝕され、それぞれの私有化が進められた。この結果実力による土地の争奪戦が一般化し、既成の諸制度や諸権利はすべて否定される戦国時代に入った。

 この間越谷地域では、下総国に属した新方庄が武蔵国に編入され新武蔵とも称されたが、多くの沼沢地が開発され、活発な人びとの生活が展開されていた。たとえば人間の生活とともに存在した神社仏閣をみても、当地域の主な寺社のすべては中世の創建を伝えている。中世の遺物として典型的な供養板碑も、建長元年(一二四九)銘のものをはじめ、二百基以上も確認されている。

近世の越谷

 天正十八年(一五九〇)、それまで関東に覇権を確立させていた小田原北条氏が豊臣秀吉によって攻略され、かわって関東の地は徳川家康に与えられた。関東に入国した家康は、有力な社寺や在地武士層によって私有された土地を検地によって徳川氏の公領地とし、同時に私有された実際の耕作農民をその地の所持者に位置づけ、年貢の負担者として直接これを把握した。

 こうして従来の郷や庄は解体され、平等な人格をもった農民の結合である行政村々が構成された。この村は年貢一括納入の責任単位であるとともに、生産・治安・娯楽などすべて行政区画の末端単位とされた。それだけに村びとは村を生活共同体の場として結束し、一村一家族のように運営されたのが普通であった。その村数は利根川の東遷、荒川の西遷によって急速に沼沢地が開発され、越谷地域では二町四十九か村を数えた。なかには新開地のうち七左衛門村(現七左町)や弥十郎村(現弥栄町)のように、その開発人の名をとって村名とした村もある。

 村の規模は増林村や蒲生村のように、高一八〇〇石台の大村から、別府村(現東町)のように、高四四石余の小村まで大小様々であったが、平均して高四〇〇石から五〇〇石程度で一村が構成された。この村の長は名主と称し、その多くは中世来の地侍層が農民身分になって世襲でこの名主役を勤めた。支配関係は、はじめすべてが徳川氏の蔵入地(後の幕府直轄領)であったが、のち忍藩(行田)・岩槻藩(岩槻)・六ッ浦藩(神奈川県金沢)それに旗本知行地に組入れられた村もある。ことに東方・見田方・南百・四条・別府・千疋・麦塚(現約大成町)柿ノ木(現草加市)の諸村は、柿ノ木領八か村と称され、忍藩の大きな飛地であった。

 村の生業は沖積低地であっただけに、その多くが水田稲作であったが、とくに越ヶ谷領で生産される粳米は「越ヶ谷米」と称され、さらにこの地の糯米は「太郎兵衛餅」と称され、良質の米や糯として知られた。このほか蓮根・くわいなども生産された。また平方、大房(現北越谷)・袋山・増森・花田・中島など河畔の地は砂土に覆われ畑作地帯であったが、後に袋山や大房などのように桃や梅の産地としても知られるようになった。

越ヶ谷宿

 慶長七年(一六〇二〉徳川氏による交通政策により、千住・越ヶ谷・粕壁・幸手に至る奥州道が奥州路への公道に指定され、この道筋に伝馬継立のための宿場が造成された。越ヶ谷宿もその一つで、四町野・花田・瓦曾根などの農民が往還道にそって町屋を形成、「越ヶ谷郷」の郷名をとって越ヶ谷宿と称した。宿の住民は土地を所持し、しかも往還道にそった屋敷の所持者が一人前の宿民であったが、その間口が六間以上の家を伝馬役百姓と称し、六間以下の家が歩行役百姓と称されて伝馬役の負担に区別があった。

 この両役は古くから株立てによって制限されており、越ヶ谷町ではおよそ一二〇軒半の株立てであったが、後にこの屋敷株はさかんに売買されるようになり、五株六株の複数株を所持する者が現われる反面、一株が細分され、二分の一株、三分の一株の所持者も現われるようになった。このほかこの屋敷株を所持しない住民は地借・店借と称され、町政に参与できないばかりか、身分的にも区別された。しかし宿民の構成は、時代が下るとともに地借・店借層によって占められ、その比率は越ヶ谷・大沢ともおよそ四対一の割合であった。

 このうち大沢町は、はじめ越ヶ谷宿の合宿として宿場を構成したが、のち両町の伝馬機関が合体し、越ヶ谷宿のうち越ヶ谷町、越ヶ谷宿のうち大沢町と使い分けられた。ただし両町とも行政的には独立した町で、それぞれ町の長である名主が置かれたが、越ヶ谷町の行政区画は本町・仲町・新町と三町に区分されていたので三名の名主がいた。一方伝馬機関を司どる宿の役人は、駅長としての問屋、それを補佐する年寄、御用旅籠の元締ともいえる本陣が宿場の三役であったが、問屋は原則的に名主がこれを兼掌することになっていた。したがって越ヶ谷宿には四人の問屋がいたが、これら問屋は交代で問屋場に詰め伝馬業務を管掌した。休泊業務を担当した本陣は、はじめ越ヶ谷本町の会田八右衛門家が世襲でこれを勤めたが安永年間(一七七二~八一)に没落して退転、天明元年(一七八一)から大沢町の大松屋福井氏が本陣を勤めた。

 このように越ヶ谷宿は、越ヶ谷町と大沢町によって構成されたが、このうち越ヶ谷町は古くから二、七日の六斎市が開かれていた関係から穀屋・呉服屋・荒物屋などが軒をつらね、商業都市として在郷商圏の中心であった。一方大沢町は、はじめから旅籠屋・茶屋などの交通機関が集中し、交通都市としての色彩が強かった。

改革組合村の成立

 江戸時代も後半になると、自給自足を原則として強固な生活共同体を維持してきた農村にも、農業の生産性が高まり商品経済が一般化した。同時に貨幣経済が進行し農間余業が盛んになった。こうして貨幣が農村の隅々にまで浸透すると、農民の生活水準が向上したものの、博奕をはじめ貨幣を媒介とした諸犯罪が激増し、治安の乱れがはげしくなった。

 このため幕府は地方農政機構の存立をはかるため、農民による商業・工業の抑制措置など、農村機構の規制を強めた。また治安取締りの面から文化二年(一八〇五)、関東取締出役を設置、とくに関東農村の取締りを強化した。次いで文政十年(一八二七)五月、御料・私領・寺社領の別なく、数十か村を単位とした組合村の結成を関東一円に指令、この組合村に関東取締出役を直結させた。これを文政の改革と称し、この組合を改革組合と呼んだが、後、組合の親村に、囚人を臨時に収容する囲補理場が設けられるに及び寄場組合と呼ぶようになった。

 越谷地域では越ヶ谷・大沢町を親村とした周辺三十八か町村からなる越ヶ谷組合、大相模地域を含めた三十六か村からなる八条組合などが成立した。この組合には数名の大惣代が置かれたが、このなかに数か村単位の小組合が設けられ、小組合ごとにまた小惣代が置かれた。これらの惣代は幕府の改革触にしたがって組合内の取締りに当ったが、この改革では博奕の取締りや商工業の規制はもとより、冠婚葬祭や娯楽行事など、村の生活慣行まできびしく規制したものであった。

 当時人びとの生活は、商品経済の進行により、広範な領域にわたって相互に交流していたので、もはや生活共同体としての一村限りの取締り行政では、治安そのほか村の行政も行届かない状況になっていたのである。その後異国船の渡来などで江戸幕府の鎖国政策は破れ、各国と通商貿易が締結されるに及び、農業を基盤とした幕藩体制は大きくくずれ、ついに慶応四年(一八六八)幕府は崩壊した。

近代の越谷

 明治元年討幕軍の江戸入城で、越谷地域は武蔵知県事の支配に置かれたが、明治二年大宮県(後浦和県)と小菅県の分割支配に移された。続いて明治四年の廃藩置県により、藩県や浦和県などが統合されて埼玉県の統治に入ったが、同時に戸籍法による大小区制が布かれ、町村別の行政区画は解消されて新たに区長・戸長などの役職が設けられた。この間百姓の呼び名が平民の称号に改められ、一般人にも苗字が許されたが、農民の身分上の地位やその生活も江戸時代と大差なかった。

 次いで地方の行政制度は明治十二年三新法が施行されてそれまでの区制は廃止されたが、このとき町村が再び行政の単位に復した。これにかわり町村と県の間に郡役所が設けられ古代の郡制が復活したが、越谷地域は南埼玉郡に属した。同時に小規模な町村では財政その他行政の運営に支障が多かったので、数か町村単位の村連合が進められ戸長役場が置かれたが、明治十七年正式に連合村による連合戸長役場が設置された。

 次いで明治二十二年四月、町村制の施行により、およそ連合戸長役場当時の連合村によって新たな統合町村が誕生した。当地域では、それまで二町四十九か村を数えた町村が、越ヶ谷・大沢組合町をはじめ、桜井・荻島・新方・大袋・増林・出羽・蒲生・大相模・川柳の一町九か村に統合された。このうち越ヶ谷・大沢組合町は明治三十五年に分離し独立町になった。また明治十二年から設置されていた郡役所は、経費がかかる割には効果が少ないという理由から大正十二年に廃止されたが、郡名はそのまま残された。

 この間明治二十六年には日光街道千住・粕壁間に千住馬車鉄道が、明治三十二年には東武鉄道が久喜まで開通、郵便・電信・電燈・学校などの施設も追々設けられて近代化が進んだ。また貢租関係では地租改正が行われ、租税などそれまで村単位で米などによる現物納であったのが、金銭による個人負担の税法に改められ、土地の売買も自由になった。

 しかし政府は農民の犠牲のうえに工業化政策を押し進めたため、農村の疲弊は深刻さを増した。しかも二十七、八年の日清戦争、三十七、八年の日露戦争には大きな犠牲を強いられ、さらに明治二十三年、同四十三年には関東の大洪水で大きな被害を蒙り、土地を手放して小作層に転落する農民や、出稼ぎにでる者が増大した。

 政府はこれに対し農村救済の確固たる政策を示さず、単に明治から大正にかけての地方改良運動、大正期の民力涵養運動、大正から昭和にかけて国民精神作興運動、世界恐慌期の自力更生運動と、もっぱら自力による農村の更生と、自治の振興を村びとに強要する運動を展開させたに過ぎなかった。

 やがて日本は昭和六年の満州事変を契機に果しなき戦争に突入、国民は国民精神総動員運動によって国家の軍事方針に一億総結集を求められた。さらに時局の進展にともない、大政翼賛運動が展開され、地方の自治機関は戦争協力のための政府の出先機関に化したが、それとともに町村自治体の自主性や個人の意志は全く封ぜられた。

 やがて終戦後日本は占領軍の統治下に置かれ、新憲法や新地方自治法の制定で、従来からの諸制度は根底から改革された。このうち地方自治法に規定された基本原則は、地方自治体を中央集権的な統制からはずすことにあり、県知事などの直接選挙をはじめ、教育・消防・警察などが地方自治体に移管された。しかし小規模な地方自治体では、これら国家から移管された諸事業を遂行するには困難であり、とくに地方自治体の財政は危機に直面した。このため政府は昭和二十八年町村合併促進法を制定し、町村合併を促がした。このとき越谷地域では二町八か村が統合し、新越谷町を成立させたのは前述のとおりである。

 こうして越谷の自治体は明治二十二年の旧町村から昭和二十九年の合併町に、さらに同三十三年市制へと進展をみせたが、地域住民の生活様式は、戦争による疲弊からの立直りに追われたこともあるが、昔ながらの生活共同体的側面を残したまま、集落ごとに結束、その日常生活に大きな変化はなかった。そしてこうした自然集落を母胎に、農業を主体とした田園都市をめざし、町づくりの第一歩が進められたのである。

 ところが昭和三十七、八年を境に高度工業化政策の影響が越谷にも波及、転入人口の激増、農地の潰廃、工場や宅地の進出により田園都市の構想は挫折、同時に越谷の自然環境は一変するに至った。それとともに人びとの生活様式も衣食住全般にわたって一変したが、人びとの意識も大きく変り、地域住民の連帯感や共同体意識も拡散するに至った。ここに地方自治のあり方も改めて問いなおす時機にきたといえる。いずれにせよ我々は今一度昔の人びとの生活を振り返り、現在を考え、そして将来の展望の参考にしたいと思われる。