越谷地域のうち、元荒川(もとの荒川本流)以西は古くから武蔵国に属したのは確かだが、元荒川以東古利根川(もとの利根川本流)の間、つまり増林、新方、桜井の各地区から春日部にかけての新方領は、もと下総国下河辺庄に属した。すなわち金沢称名寺文書嘉元三年(一三〇五)「金沢瀬戸橋造営棟別銭注文案」に、「河辺新方分」とあり、同じく嘉暦元年(一三二六)の「新方検見帳」には、「下総国新方のうちおま(現大袋地区恩間)の分」とある。
この地域が武蔵国に編入された時期は、今のところつまびらかにできないが、太田道灌岩槻支配の長禄年間から文明年間(一四五七~八七)にかけてのことであるという説もある。ともかく天正十九年(一五九一)、平方(桜井地区)林西寺に与えられた徳川家康の寺領朱印状には、「武蔵国崎西郡平方郷之内弐十五石之事」とあるので、このときすでに武蔵国になっていたのは事実であろう。
それでは古利根川以東江戸川(昔は太日川と呼ばれた)の間、つまり松伏、吉川、三郷地域が、下総国から武蔵国に改められた時期は何時のことであったろうか。従来近世以前、あるいは近世以後とする各説があって必ずしも明瞭ではない。このうち近世以前の武蔵国編入とする説は、永正・大永年間(一五〇四~二八)、関宿城主簗田政助が、金子左京亮に宛た書状に、禅興寺領武州平沼郷(吉川町)と記され、さらに天正十九年の金町(葛飾区)香取社の社領朱印状には、「武蔵国勝鹿郡葛西金町郷」とあることを挙げている。
一方近世以後の国改めとする説には、正慶元年(一三三二)、北条貞時の書状に、「下総国下河辺庄赤岩郷(松伏町)とあるのをはじめ、しばしばでてくる金沢称名寺文書の下総国赤岩郷、そのほか戸ヶ崎村(三郷市)浅間社、天正十年(一五八二)の鰐口銘に「下総国戸ケ崎郷」に記されていることを挙げている。
このように武蔵・下総の国境を時期的に明らかにすることは至難であるが、当市史編さんの調査では、川藤(吉川町)榎戸の薬師堂境内にある天正十七年銘の宝篋印塔墓石に、「下総国葛飾郡川辺荘榎戸村」と記され、さらに関東代官伊奈半十郎忠治施行による葛西飯塚村(葛飾区)元和八年(一六二二)の検地帳には、「下総国葛西庄飯塚村」とあり、近世初頭のこれら地域は、まだ下総国に属していたようである。
そして江戸川開鑿の功労者、伊奈忠治配下の代官小島庄右衛門による吉妻村(庄和町)小流寺の『小流寺縁起』には、寛永十八年(一六四一)の江戸川開通後、庄内領(現庄和町を中心とした地域)地域を除く江戸川以西を、すべて武蔵国に統一したことが記されている。事実幕府による正保改定図(一六四四)では、松伏をはじめ吉川・三郷・葛西地域はこのとき武蔵国とされている。
おそらく戦国の動乱期には、勢力関係その他で、武蔵・下総まちまちに用いられていたときもあったとみられるが、寛永末年には江戸川以西の地は庄内領を除きすべて武蔵国に統一されたものと考えられる。