新方庄と梅若伝説

19~21 / 212ページ

原本の該当ページを見る

 春日部市小淵から西に向かい、新方袋・道順川戸・増富(現春日部市)・長宮(現岩槻市)を経て元荒川に至る間に古隅田川と称される細流がある。これが古い頃の利根川主流筋の河道跡であり、下総国と武蔵国の境界であった。新方庄はこの古隅田川を北限に、現元荒川と古利根川が、越谷市中島地先で合流する、四方川によって囲まれた輪中の区域をいい、古い頃は下総国に属した。つまり越谷市のうち、元荒川の左岸桜井・新方・大袋・大沢、春日部市のうち粕壁・武里・豊春、岩槻市のうち川通の各地区がこれに含まれる。なお元荒川の右岸荻島・越ケ谷・大相模などの各地区はもと武蔵国崎西郡に属しており、古隅田川筋を流れた利根川と荒川(元荒川)の合流路が武蔵と下総を画す国境になっていた。

 このうち新方庄に関しては、『金沢称名寺文書』嘉元三年(一三〇五)の文書に下総国「河辺新方分」とあるのが今のところ新方の名の初見である。次いで嘉暦元年(一三二六)の同文書に「下総国新方検見帳」と載せ、「十丁めん分」と「おま」(現越谷市恩間)の分とが記されている。また一ノ割香取社(現春日部市)享徳三年(一四五四〉の鰐口銘に、「新方荘一被目香取社」、長宮香取社(現岩槻市)文明六年(一四七四)の鰐口銘に「新方庄長宮香取社」などと、新方庄の名が数多く散見できる。

 もっとも『大日本史料』延元元年(一三三六)三月と八月の、春日部重行と、その子若法師に宛た南朝方の領地「宛行状」には、「下総国下河辺庄春日部郷」と載せられており、さらに延文六年(一三六一)の市場の祭文(祝詞)にも「下総国下河辺庄春日部市」と記されているので、新方庄は当時ひろく下河辺庄のなかに含まれていたとみられる。またこの新方庄の北限、国境を画した古隅田川筋は、砂丘を含む自然堤防のきわめて発達した地域で、場所によってはその堤防と堤防の間隔からみて、その川幅は一〇〇間(一八〇メートル)余にも及んでいたことが知れるが、ここには梅若塚の伝説も残されている。

 梅若とは、豊春村(現春日部市)役場蔵本『梅若塚略記』によると、京都の公卿北白川吉田惟房の子で、安和二年(九六九)一月、七歳のとき学問修業のため比叡山月林寺に入寺した。ところが天延二年(九七四)二月、十二歳のとき、信夫藤太と称する奥州の商人に誘拐され、武蔵国と下総国の境を流れる隅田川まで連れ去られてきた。しかし梅若はこのとき長途の旅で疲れ果てかつ病いのため歩けなくなっていた。そこで藤太は足手まといとなった梅若を隅田川に投げ捨てて立ち去ってしまった。

 水に流された梅若は岸辺の柳の枝につかまって岸辺にはいあがり、里人に助けられたが、同年三月十五日「尋ね来て 問はば答えよ都鳥 隅田河原の露ときえぬと」の辞世を残して没した。村びとはこれを哀れんでねんごろに弔い、この塚を梅若塚と名付けた。翌三年三月、梅若を訪ねて東路にきた母の花御前は、ここで梅若の死を知り、尼となって妙亀尼と称し梅若の菩提を弔ったが、ある日近辺の池に梅若の姿をみて池に身を投げて没した。このため里人はこの池を妙亀池とも鏡の池とも呼んだという。

 この梅若伝説の池は、現在東京都墨田区隅田町木母寺の梅若塚が定説になっているが、古隅田川の地元では当地がその元の地で、のちこの伝説が隅田の木母寺に移されたと伝えている。ところでこの新方庄が下総国から武蔵国に改められたのは比較的早い年代とみられるが、その時期は今のところつまびらかでない。一説には太田道灌岩槻支配の頃といわれ新武蔵とも称されたという。そしてすでに天正十九年(一五九一)の平方林西寺にあてた徳川家康の寺領朱印状には、「武蔵国崎西郡平方郷之内弐拾五石之事」と記されていた。

春日部市新方袋の梅若塚