向畑陣屋

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 通称猿島街道あるいは野田街道ともいわれた国道旧十六号線を松伏に向かい、古利根堰の手前大吉香取神社のわきから新方橋を渡ると、古利根川に沿った古道に出る。ここの古利根河道は、葛西用水の溜井に用いられているので、春から秋にかけては満々と水を湛えて湖沼のごとき景観をみせ、秋から春先にかけては水が干上がり、一筋の水路が帯のように蛇行する広々とした河原に、青い毛せんを敷きつめたような崩草が広がって箱庭のような景観をみせる。

 水のあるとき水のないとき、それぞれ自然の趣きを添えた川辺の古道を、人びとは幾世代にもわたって往来してきたが、今でもこの道は自然のままで、路傍の庚申塔や樹木の間の草葺屋根などに昔日の面影が偲ばれるようである。この川と畑と樹木がつらなる道を暫く行くと、向畑の集落に入るが、ここには自然のままの環境にふさわしく、古い時代の伝説が残されている。

 それは通称向畑の陣屋と呼ばれ、当地の地頭であった新方氏が城砦を構えていたという伝説である。現在丘をなしていたといわれる陣屋跡は切り崩されて畑にならされ、その面影をとどめていないが、陣屋の構え堀と伝える細溝が僅かに昔日の陣屋構えを偲ばせている。この新方氏の伝説を「六ヶ村栄広山由緒著聞書」(大松清浄院所蔵)によってみると、文亀四年(一五〇四)八条郷(現八潮市)の地頭八条惟茂は、自己の勢力を拡大するため新方庄に侵入した。この際八条軍の進入を阻止しようとした新方頼希と小林郷(現東小林)で戦ったが勝利を収め、新方氏の支配地を掌中に収めた。

 このとき戦死した頼希の兄にあたる栄広山(清浄院)の住職高賢上人は、渋江郷渋江寺(現岩槻)の欣誉上人を頼り角田川を渡って渋江寺に落ちのびた。その後永正十七年(一五二〇)高賢上人は陣容を整え、新方氏にかわって向畑城を守っていた八条氏の一族別府三郎右衛門を攻撃、同城を焼払って栄広山を再建した。次いで翌十八年新方氏は渋江氏の加勢のもとに、青柳・柿ノ木・大相模・西脇などの各氏を動員して新方庄に出動した八条軍を、大沢・瓦曾根・別府の各地でこれを破り新方庄の旧領を確保したという。この実否を史料的に確認できないが、当時新方庄六か村の領主は清浄院であり、この清浄院領の地頭職は新方氏であったとも考えられる。

 また新方氏の伝説を「大沢猫の爪」によってみると、新方領の向畑耕地に陣屋構えの場所がある。ここに新方三郎とその郎党一七軒の家があったが、十二月二十二日の雪の夜に餅を搗いていたところ、小田原勢に攻撃されて落城、新方三郎は法師武者となって寺に入り、一七軒の郎党はいずれも百姓になった。このため向畑では年内には餅を搗かず、若餅(正月三か日に搗く餅)をつく習わしである、と記している。

 このほか「大沢町古馬筥」によると、昔向畑の陣屋に新方三郎と称した武者がおり、当地域一万三千石を知行した。その家臣で陣屋守を勤めた岩井弥右衛門は、新方氏没落の後修験となり、向畑村花向院に住職したが、彼の所持品の栗田口義光作の短刀は、現今大相模の中村万五郎(劔術家)の手に渡っている、とある。

 このように新方氏に関する数多くの伝説が残されているが、これらの史実を確かめられないものの、夢とロマンを追って新方氏を追及してみるのも楽しいものであろう。

向畑陣屋跡