大相模の不動院(その一)

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北条氏繁と不動坊

 大相模地区西方(現相模町)の真言宗真大山大聖寺は、もと大相模の不動院あるいは不動坊と称され、天平勝宝二年(七五〇)の創建、本尊は良弁僧正作の不動明王像と伝えられる。

 良弁僧正とは百済系帰化人の子孫といわれ、持統天皇三年(六八九)の生れ、生国は近江国とも相模国とも伝えられ、つまびらかではない。良弁は華厳宗の学僧として名を高め奈良東大寺の開山僧となっているが聖武天皇の十九年(七四七)からはじめられた大仏造立にあたっては、聖武天皇を助けてこれを完成させている。天平宝字七年(七六三)この功績により僧正位に補されたが、宝亀四年(七七三)八十四歳で没した。

 この間良弁が関東に来たことは明瞭ではないが、大聖寺の寺伝によると、大仏造営の勧化(つまり寄付集め)のため関東を遍歴したが、その途中相模国大山に不動堂を建立、大山寺の基いを開いたという。このとき良弁は榎の木で彫刻した二体の不動明王像を作成したが、このうち元木で作られた一体が大相模の地に移され不動坊の本尊に祀られたとしている。このためこの地が大相模と名付けられ、不動坊の山号を真の大山という意味で真大山と称されたと伝える。

 その後天文年間(一五三二~五五)不動坊に賊が入り、本尊の不動明王像を盗んで江戸に持ち帰ったが、その夜本尊を安置した宿所は一晩中鳴動したので賊は驚き、尊像を再び不動坊に戻した。それで人びとはこの尊像を〝家鳴不動〟とも呼んでいよいよ信仰の念を厚くしたという。

 それはさておき、古代から中世にかけての有力寺社は広大な土地や山林を領有し、各地域の中心的な勢力圏を形成していることが多かった。ことに大相模の不動院は、戦国大名もこれを無視できないほどの有力寺院であったとみられ、元亀三年(一五七二)二月九日、小田原北条氏の武将北条氏繁によって「大相模不動院は古来から岩付城の祈願所として設定を免除されてきたが、近頃みだりに横合から非分を申しかける者があり、けしからんことである。今後前々の通り怠慢なく岩付の武運長久を祈願するようにせよ、横合から非分申しかける者は、糺明をとげるであろう」との要旨による掟書が大相模不動院宛に発せられている。

 当時における越谷周辺の軍事状勢をみると、北条氏に敵対した岩付城主太田資正は、永禄七年(一五六四)の高府台合戦に敗れた際、北条氏と内通したその子太田氏資に追放された。このため越谷周辺は事実上氏資を通じて北条氏の勢力下に置かれていたとみられる。ところが氏資は永禄十年、上総国周東郡三船台における里見勢との合戦で戦死を遂げた。岩付太田氏直系の滅亡ともいえる。そこで北条氏は早速氏資の娘を、北条氏政の次男当時三歳の十郎氏房にめとらせ、太田氏房と名のらせて岩付城主に位置づけた。

 しかし永年岩付太田氏と深い関係をもっていた在地の有力者はこれに不安を感じ、北条氏の岩付城乗取りに抵抗を示そうとしたのは十分察知できる。このような混乱を収拾するためにとられた措置の一つが、百間(現宮代町)西光寺に発せられた同じく北条氏繁による寺内狼藉禁止の書状であり、その一つが大相模不動坊に宛た掟書などである。

北条氏繁の掟書(大聖寺蔵)