大相模の不動院(その二)

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徳川家康と大聖寺

 当時は軍事力を兼ね具えていた在地寺社の勢力を無視できず、戦国大名は先ずこれら有力寺社を味方に引入れるよう画策を施こしていたのが一般的であった。そして氏繁は自ら不動院をしばしば訪れていたといわれ、当寺には氏繁妻の寄進と伝えるさんごの数珠などが残されている。また天正十四年(一五八六)には、岩付城主太田氏房が、寺院の保護やその統制のために発した制札が、大相模不動坊にも出されている。

 その後天正十八年(一五九〇)、関東に入国した徳川家康は、領国統治のために先ず手をつけた一つが、やはり寺社領政策であり、翌天正十九年十一月、主な有力寺社へ一斉に寺社領の安堵状(朱印状)を発している。これは在地に根強い勢力を植えつけていた寺社に対する一つの懐柔策でもあった。この時与えられた寺社領の大きなものでは、鷲宮社四〇〇石、大宮氷川社の二〇〇石、小淵(現春日部市)不動院の一〇〇石などがあるが、大相模不動院には高六〇石が安堵された。さらに寺号の大聖寺もこのとき与えられたといわれる。

 なお大相模の西方には、大きな勢力をもった修験寺系の山王社(現日枝神社)があり、当地域の東光院、利生院・神王院・安楽寺・薬王寺・観音寺の六寺を配下におさめていたが、家康の寺社領政策で単なる村社に位置づけられた。おそらくこの山王社は、もと大相模の不動坊と密接な関係にあったものと思われるが、このとき山王社は不動院に統合されたものとみられ、山王社持ちの寺であった利生院、安楽寺などは、いずれも大聖寺に移されている。

 こうして家康は巧妙な政策で寺社を統制下に組入れていったが、同時に鷹狩の名目のもとに自ら民情視察に出向、各地を巡遊して歩いた。この時、家康の休泊所に宛てられたのは、はじめ在地の豪族の家や寺社の堂舎が用いられたが、大聖寺にも休泊を重ねていたようであり、大聖寺には、家康が宿泊時に用いたという寝衣や葵の紋のついた茶器が残されている。おそらくこれは家康が鷹狩の途次宿泊した時の下賜の品々であったろう。その後家康の休泊施設として、各地に御殿やお茶屋が設けられていったが、越ヶ谷に建てられた越ヶ谷御殿もその一つであった。

 やがて大聖寺は江戸時代を通じ、祈願寺として人びとの信仰を集め、成田の不動、加須の不動と共に関東の三大不動と称されるほどの不動信仰の中心となった。ことに広大な境内には不動堂や講堂その他諸堂が建てられ、近隣に例をみない七堂伽藍の偉容を誇る大寺として君臨、江戸の文化人もしきりに当寺を訪れた。

 しかし明治維新を迎えるや、神仏分離令の影響で大聖寺をはじめ各寺院は苦境に立たされた。しかも明治四年の上知令により、大聖寺では寺領高六〇石の所有地はことごとく没収され、寺院経営に大きな支障をきたした。さらに追打ちをかけられるように、明治二十八年七月火災が発生、七堂伽藍ことごとく焼失し、残ったのは仁王門だけであった。その後境内に藤園や古梅園などを設け、東京などからの行楽客や不動講などの信者を集めるなど、大聖寺の再建策が講ぜられ一時は参拝客で賑いをみせたようである。現在明治の火災で焼残った仁王門(惣門)や北条氏繁の掟書などは市の文化財に指定され、その保存措置が講じられているが、郷土を改めて考えてみる一つの手がかりとして由緒ある大聖寺などを調べることも意味のあることであろう。

葛飾北斉画(真大山春色)