徳川家康と越谷

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 越谷市越ヶ谷に、御殿という小字の地名がある。これは慶長九年(一六〇四)将軍徳川家康が、それまで増林字城ノ上に設けていたお茶屋御殿をこの地に移し「越ヶ谷御殿」と称したことからその名が今に残っているのである。
 この土地は、もと越ヶ谷の土豪会田出羽の陣屋内の敷地であり、軍事的にも荒川(現在の元荒川)の流れを前にした要所であった。

 この御殿の敷地を提供した会田出羽は、家康の御用を忠実に覆行して幕府体制に協力したという理由から、慶長十三年五月、畑一町歩の地所を家康から下賜されている。さらに一族の中から旗本にとりたてられた者もいる越ヶ谷の名門であった。

 それはともかくとして、当時越谷は鶴や鴨等が豊富に生息していた地帯であり、徳川実紀によると、家康はこの御殿にしばしば宿泊して鷹狩を行っていた。とくに慶長十八年(一六一三)の九月から十二月にかけては、三度も続けて越ヶ谷御殿を訪れている。このうち十一月二十日から二十七日までの泊狩の際には、越ヶ谷の近郊農民が代官の悪事を鷹狩中の家康に訴え出るということもあった。その折家康は御殿に帰り、訴え出た農民とその地の代官を対決させて裁判を行ったが、農民の訴訟が根拠のないものであることが判明し、農民側の首謀者六名が処罰されている。またこの間家康は鶴を一七羽も捕えたと御機嫌であったときもあった。

 やがて元和元年(一六一五)五月、大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は、戦後処理を終えると江戸を訪ずれ、江戸近郊各地を巡遊して歩いた。このとき岩槻を出て越ヶ谷に来たのは同年十一月十日であったが、越ヶ谷の狩場は田に水が満ちて鷹狩ができなかった。このためこの地の代官が叱嘖されている。この一件は他の関連資料から推定すると、おそらく瓦曾根溜井の造成により、広い地域の田場が水溜りになったことから起きたものとみられ、この地の代官は以前の罪状もあわせとがめられて改易処分をうけている。農地の開発を志向した措置であっても、当時は支配者の恣意性により、きびしい処分をうけることもあったのである。

 いずれにせよ家康は越ヶ谷御殿に滞在した日数は同月十五日までの五日間であったが、家康が越ヶ谷を訪ずれたのはおそらくこれが最後であったろう、家康は翌元和二年四月急病により駿府城で没している。
 その後二代将軍秀忠も家康と同様しばしば越ヶ谷御殿を訪ずれているが、とくに秀忠の特徴は、阿部正次・井上正就などをはじめ、幕閣の重臣を引つれて半月以上にもわたる滞在で鷹狩や茶の湯を楽しんでいることである。徳川政権がすでに安泰をみせたこともあり、越ヶ谷御殿を恰好な保養地として利用していたとみられる。

 こうして徳川将軍家がさかんに利用した越ヶ谷御殿は、明暦三年(一六五七)の江戸城焼失の際江戸城二の丸の仮城として、そのまま移されることになった。したがって、その地は御殿跡となってしまったが、このおもかげは今でも元荒川堤の桜並木にわずかに残されている。

御殿の元荒川堤