古い時代には瓦曾根、四丁野、荻島、西新井、袋山、花田それに現岩槻市鈎上などを含めた地域を、越ヶ谷郷と呼んだ。永禄五年(一五六二)小田原北条氏が葛西金町の本田氏にあてた書状には、越谷・舎人は大郷であるが、忠節をつくせば速やかにこれを与えるという文面がみられる。また天正十九年(一五九一)の徳川家康寺領寄進状のうち、四丁野迎摂院の朱印状には「崎西郡越ヶ谷郷之内五石事」、瓦曾根照蓮院の朱印状には「腰ヶ谷瓦曾禰之内五石事」、越ヶ谷天嶽寺の朱印状には「崎西郡越ヶ谷郷之内拾五石事」とある。さらに新編武蔵風土記稿によると、岩付領鈎上村(現岩槻市)の慶長年間の検地帳には、「武州騎西郡越ヶ谷之内鈎上」と記されていたとあるので、越ヶ谷は大郷であったにちがいない。
天正十八年八月、小田原北条氏に代って関東に入国した徳川家康は領内各地に度重なる検地を行い同時に郷や庄を解体して行政単位としての村々を成立させた。このうち越ヶ谷村は奥州道中(後の日光道中)の宿駅として新たに造成された町(行政的には村)であり、おそらく四町野、花田、瓦曾根の人びとによって町家の割り当てがされたとみられる。そして当所を越ヶ谷郷の越ヶ谷をとり、改めて越ヶ谷町と名づけられた。
この新しく造成された越ヶ谷町の家並をみると、いずれも街道に面し軒を接して直角に区割されており、間口が狭く奥行が長いのが特徴である。これは屋敷の周囲が林野に囲まれた自然集落と異なり、人工的な造成であるのが明瞭である。こうして越ヶ谷町は徳川氏による交通政策により、人工的に新しく造成された町であったので、越ヶ谷本町の鎮守市神社は、越ヶ谷町の元郷とみられる四町野村の神明社を、とくに越ヶ谷に移して勧請したといわれる。一方越ヶ谷町のなかに古くから勧請されていた久伊豆神社をはじめ、中町の浅間社や本町の愛宕社は、前々からの関係から四町野村の所有となり四町野村迎摂院が別当としてこれを管理した。このほか袋町の円蔵院も前からの因縁により、瓦曾根村の所有とされ瓦曾根村照蓮院の管理に置かれた。つまり新しく造られた越ヶ谷町には、その所有権がなかったわけである。
また越ヶ谷町の隣村大沢村も、越ヶ谷町と同様、宿場として新たに造られた町で、大沢町の住民の多くは、鷺後や高畑地域から移住して町を構成したといわれ、このため同町の鎮守は、鷺後の香取社を大沢に移して新たに勧請したと伝えている。
こうして造成された宿場の住民構成は、他の村々と異なり、街道に面して建てられた家のうち、表間口六間(約一〇・メートル)以上の家が伝馬を負担する伝馬役百姓、間口六間に満たない家を歩行役(荷を負って運搬する人足)百姓と呼んで一人前の宿民であった。このほか、たとえ土地の所有者であっても街道にそって建てられた屋敷を持たない者は、裏百姓、あるいは地借・店借と称され、身分的にも区別された。つまり伝馬の役は屋敷所有者の特権でもあったわけであり、その他は伝馬を負担しないかわり町政にも参加する資格が除かれていたのである。