至登山天嶽寺

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 越ヶ谷の元荒川にかかる寺橋(現宮前橋)を久伊豆神社の参道に向かった左手が、浄土宗京都智恩院末至登山天嶽寺である。黒塗りの山門をくぐると天空に枝を張る見事な老松の下に、数百基の無縁仏墓石群が整然と竝べられている。江戸時代天嶽寺は越ヶ谷町唯一の寺院で、越ヶ谷町の住民になるには、いずれも天嶽寺の檀家になる定めであった。したがってこの無縁仏群は、長い期間にわたる激しい世の移り変わりと、越ヶ谷住民の浮き沈みを象徴した歴史の一駒といえよう。

 天嶽寺のこの一町一寺の特権は、寺伝によると、それまで大沢の地蔵橋から天嶽寺のわきを流れ、花田から東小林東福寺わきへと迂廻していた元荒川を、越ヶ谷御殿地から瓦曾根溜井まで直道に改削するため、御朱印地高十五石の天嶽寺境内の一部をこの新流路に宛てた。その代償としてこの特権が付与されたと伝える。

 また一説には、江戸時代の初期、越ヶ谷新町に切支丹の類族が居住していたのを天嶽寺が摘発してこれを奉行所に報告した。このとき天嶽寺は、越ヶ谷町が宿場として繁昌するにしたがい、邪宗門徒が入りこむことがあるので、これを穿鑿しやすいようにするため、一町同宗に改めさせることを願い出た。訴えをうけた奉行所はこれを認め、越ヶ谷町は一か寺に限るという方針が決定されたという(『越ヶ谷瓜の蔓』)。

 もとより天嶽寺は、文明十年(一四七八)太田道灌の叔父ともいわれる専阿源照によって開山された寺院であるが、その後小田原北条氏の居館の一つとされ、北条氏による寺領黒印状が与えられていたとも伝える。したがって天嶽寺は、もと特定の戦国武将により軍事的な出城に利用されたとみられるが、江戸時代幕府の宗教政策により、越ヶ谷町の檀那寺としてその基盤を確立したと考えられる。ことに天嶽寺は江戸時代を通じ、同寺の塔頭(わき寺)として雲光院・法久院・遍照院・善樹院・松樹院の五寺院が置かれ、近郷切っての大寺院であった。その檀家も、天保十四年(一八四三)の人別調書によると、当時越ヶ谷町の全戸数にあたる五四二軒、二五六五人がすべて天嶽寺の檀徒であった。

 さて石畳のわきの無縁仏群に続いて不動堂があり、その隣りの空地に方言学の祖と称され、また曲亭馬琴の俳偕の師であったといわれる越ヶ谷吾山の俳句碑が建てられている。「ひと津るべ 水の光るやけさの秋」もとより越ヶ谷は江戸近郊の宿場として江戸の文化人との交流も繁く、ことに俳偕の盛んな土地であった。次いで朱塗りの鮮やかな楼門をくぐると正面は本堂・右手は鐘楼、左手は墓地の入口である。

 この墓地の入口には越ヶ谷郷の土豪会田出羽家の墓所がある。その併列した板碑形の墓石には、当時庶民には用いられなかった「院殿居士」号の法名が刻まれている。このうちの数基は旗本会田氏代々の供養塔であり、越ヶ谷の歴史を語るうえで大きな手がかりの一つとなっている。またこの会田家墓所から右手の墓石群を分けて進むと「法橋」越ヶ谷吾山の墓、その奥に天嶽寺住職代々の卵塔墓石が竝んでいる。

 このほか越ヶ谷町を今日までに育てあげてきた多くの人びとがこの林立する墓石の下に静かに眠っている。その一つ一つがそれぞれの歴史を秘めているこの墓石群に接し、我々は改めて歴史の重さを感じるのである。

天嶽寺の無縁仏墓石群