伊奈半十郎と会田七左衛門

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 利根川の東遷、荒川の西遷など関東諸河川の大改修や、それにともなう新田開発に偉大な功績を残した伊奈半十郎忠治は、慶長十二、三年(一六〇七~八)の頃徳川家康に仕え幕府勘定方に勤めた。はじめ蔵米を支給される身であったと思われるが、慶長十八年足立郡植田谷郷(現大宮市)や三条村などで八〇五石余の知行を与えられた。慶長十五年、父備前守忠次が没した後は、父の諸業務のうち幕府直轄料村々の年貢収納や検地の施行、それに新田開発や治水事業を担当した。

 もちろんこれらの事業は、直接には忠治の配下に組入れられた地方代官といわれる在地の有力者によって進められたが、このうちの一人に、越ヶ谷領神明下村(現神明町)の会田七左衛門政重を挙げることができる。

 政重は越ヶ谷郷の土豪会田出羽資清の養子といわれるが、のち神明下村に分家し、伊奈忠治のもとで当時沼沢地帯であった出羽地区の開発にあたった。この政重によって開発された新田は、はじめ槐戸新田と称されたが、元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の際、越巻(現新川町)・七左衛門(現七左町)大間野の三村に分村された。このうち七左衛門は、会田七左衛門の名をとって名づけられた村名である。

 このほか政重は、忠治にしたがい、各所で検地にも従事した。文政年間(一八一八~三〇)調査による『新編武蔵風土記稿』に限ってこれをみても、寛永六年(一六二九)、足立郡鴻巣領東間村の検地は、成瀬権左衛門・宮田庄左衛門・海野権兵衛とともに会田七左衛門がこれにあたったとある。

 さらに同領篠津村・花野木村の同年の検地も、「時の御代官会田七左衛門糺せり」と記されている。また多摩郡山口領下荻窪村・天沼村・阿佐ヶ谷村・堀之内の寛永十二年の検地にも阿出川惣兵衛らとともに会田七左衛門がこれを糺したとある。会田七左衛門はその後伊奈氏のもとを離れ、自作地の経営にあたったとみられるがその晩年の動向はつまびらかでない。慶長十九年十一月、年六十二で没し、政重の開基と伝える七左衛門村観照院に葬られた。

 七左衛門の子孫は、初代政重と同じく代々伊奈氏の家臣として仕えていたとみられ、「伊奈氏に仕ふ」という銘が刻まれた墓石その他赤山陣屋屋敷配置図のなかに会田孫七屋敷が記されている。したがって、会田氏は代々伊奈氏の家臣として、赤山に屋敷を拝領していたのは確かである。

 また伊奈氏は、新田開発など諸事業の達成をみた寛永年間(一六二四~四四)に、規模構造とも雄大な赤山陣屋を造成し、自からが開発した赤山領など七〇〇〇余石を所領、幕府勘定頭に任ぜられた。かくて寛永十九年八月、同十二年から任ぜられていた幕府勘定方の頭役(後の勘定奉行)を免ぜられ、「以来関東諸代官の得失を糺し、堤防修築などに専念すべし」として関東代官の頭役を命ぜられた。

 ここに幕府職制上異例な伊奈氏世襲による関東郡代職の基礎が確立されたわけである。しかしそのかげには、伊奈半十郎忠治の配下会田七左衛門政重らによる功績があずかって大きかったことを知る人は少ない。

神明町会田家墓地