日光街道とはじめての日光社参

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 徳川家康の遺骸が、駿州久能山から日光山の巌窟に改葬されたのは元和三年(一六一七)の四月四日である。この年家康の命日にあたる四月十七日に将軍秀忠によるはじめての日光社参が行われた。将軍が江戸を出発した十二日の前日は大風雨であり、社参のための諸道具を持って先に出発した人足のなかには、千住・草加間で風雨にむせんで死んだ者が十三人を数えたという。

 次の日も風雨はやまず、入間川(現在の荒川)が増水して千住大橋が押流されそうであった。このため小石を詰めた数万俵の俵を橋の下の杭に吊したりして、将軍一行はなんとか橋を渡ることができたが、後から来た牧野織部成常ら十三騎は橋とともに水に流された。ようやく岸に泳ぎ上ったものの三名の溺死者がでている。

 このとき勅使として将軍とともに日光に参向した京都の公卿のなかに、日野大納言資勝がいる。資勝はこの間の道中の日記を「日光薬師堂開眼供養記」と題して書留めている。

 これによると、十二日千住で馬を乗継ぎ越ヶ谷で昼食、ここで岩槻城に向かった将軍と別れたとあるので、資勝は越ヶ谷までは将軍と一緒であったようである。越ヶ谷では混雑にまぎれ、馬に積んだ資勝の荷が見当らなくなったので、方々探し廻るという騒ぎがあった。資勝らと別れた将軍は岩槻城で泊ったが資勝らは奥州街道筋を大沢・間久里と進み粕壁で一泊した。

 次の日は午前七時に粕壁を出立し、幸手の舟着場についたのが午前十時である。ここから社参のために設けられた渡良瀬川(権現堂川)の舟橋を渡って下総国栗橋(現五霞村元栗橋)に到着する予定であったが、舟橋が洪水のため流失していたので、舟渡しが行われていた。舟を待つ間資勝らはみすぼらしい小屋で休んでいたが、不便なことはかり知れないと嘆いている。ようやく舟に便乗して午後四時に栗橋へ着き、鯉と鯰の料理をふるまわれたとある。

 将軍の日光社参は、江戸から川ロ―鳩ヶ谷―大門―岩槻―幸手のいわゆる日光御成道を通るのが通例であったが、このときは千住から越ヶ谷を経る奥州道(日光道)を通っていたことが知れる。

 また一行はこのとき、幸手から川を渡り栗橋に出ている。もちろんこの栗橋は下総国猿島郡五霞村の元栗橋であるが、この元栗橋から小手指を経て古河に出るのが古い時代からの奥州路であった。この元栗橋が現在の栗橋に移転した時期はつまびらかではないが、少なくとも元和三年以降のことであったのは、この資勝卿記によって確かめられる。

 また日野資勝は、寛永九年(一六三二)にも奉幣勅使として将軍家光の日光社参に随行しているが、このときは中田から川を渡って栗橋に出ており、「新きに町が出来たので新栗橋となり」といっている。つまり栗橋の移転は元和三年から寛永九年の間であることが確かめられるが、おそらく新川通りと赤堀川開削による元和七年の新利根川流路の改修による五霞村の水害を避けての移転であったのは十分考えられる。

 ともかく今からおよそ三六〇年以前、元和三年頃の奥州道(日光道)は、まだ街道や宿駅の整備が進まずきわめて不便で困難な道中であったようである。

日光東照宮