日光門主(昭和五十二年十二月十五日号)

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 近頃ニュースを賑わしている話題の一つに日光山諸堂の所有権をめぐる、日光東照宮と日光輪王寺との争論があり、俗に百年戦争とも称されている。もともと日光東照宮と輪王寺は同一のもので、通称東照宮は神仏混淆の風習のもとに、元和三年(一六一七)徳川家康を祀って成立した廟所のことをいう。ところが慶応四年(一八六八)三月、維新政府は祭政一致の方針を宣言し、同時に神仏の混淆を禁止した。これを一般に神仏分離令と称すがこのため神社としての東照宮と、仏寺としての輪王寺が分離された。ここに東照宮と輪王寺間に、日光諸堂の所有権争いが派生したのである。

 ところで東照宮は正保二年(一六四五)、朝廷から家康に東照大権現の宮号が授けられるに及び、家康廟は以来東照宮と称されるようになった。また、寛永二年(一六二五)天海僧正により、江戸上野の忍ケ岡に天台宗の関東総本山東叡山寛永寺が建立されたが、天海が没した後の正保四年に後水尾帝の第三皇子が寛永寺に迎えられた。その後承応三年(一六五四)日光門主を兼掌、翌明暦元年天台座主に任ぜられ、輪王寺の号を勅賜されて輪王寺を称した。つまり日光東照宮の門跡(一門を統領する僧)は輪王寺であったが、輪王寺は代々法親王が任ぜられ輪王寺の宮とも称された。

 こうして日光門主は上野寛永寺と日光東照宮を兼掌したので、日光山と上野東叡山寛永寺間を一年に定例三度往復した。その期日は一月二十三日に日光を下山して四月十一日まで東叡山に、四月十二日から五月二十一日まで日光山に、五月二十二日から九月六日まで東叡山に、九月七日から同二十二日まで日光山に、九月二十三日から十二月二十五日まで東叡山に、そして十二月二十六日に日光へ登山する慣例であった。

 この日光門主一行の道中は、日光街道を利用したが、日光街道の各宿にとっては、将軍を除いては道中第一の重要な通行者であり、失礼や間違いのない配慮を必要とした。その送迎も慎重に行われたが、越ヶ谷宿天明五年(一七八五)の書上げで門主一行の取扱いをみると、麻裃で礼装した問屋が一人、股引に脇差を携えた年寄が二人、股引をはいた定夫が二人、宿場入口から宿はずれまで一行の案内をすることになっている。また日光門主の休泊時には、本陣も麻裃の礼装で宿場入口まで出迎え、門主に挨拶して本陣へ案内する。出発時には、また、先払人足二人と差添の組頭が二人、先宿の本陣までこれを送っていく慣例になっていた。

 門主一行の人数は、越ヶ谷宿本陣福井家の天明元年(一七八〇)四月の例でみると、総勢九六名、本陣福井家ほか御用旅籠屋一四軒に分宿している。このときの本陣の昼食は挽割飯に鯉汁・すまし汁・香の物などであったが、別に酒肴も用意している。これに対し一行の宿銭は平均一人当り銭五三文という低廉なものだったが、そのつど問屋場から本陣・旅籠に補助金が支給された。

 このほか問屋場では、炭・草履・琉球表・宿賄いの手伝人足、それに従士などに与える〝昵懇〟と称された祝儀銭などが準備されたので、日光門主宿泊のときで銭五〇貫文、昼休みで銭四〇貫文の支出になった。しかも定例年に六回の通行であったので、宿場の負担は想像以上に重かったようである。身分制の厳しかった江戸時代にあっては、それでも日光門主の休泊は、宿場にとって無上の光栄としてこれを迎えていたのである。

上野東叡山寛永寺の山門