葛西用水(その一)

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葛西用水の成立

 葛西用水路に水が入って、水郷越谷の景観は一段と面目を増したようである。昔から春になると水が入り、秋になると水が落されるというくりかえしの一見きわめて当然にみえるこの用水も、実は今日まで幾多の変遷がそこに秘められているのである。

 はじめ葛西用水の前身は、中島用水と称され、庄内領中島(現杉戸町)地先の新利根川(後の江戸川)から取水されたが、これは寛永年間(一六二四~四四)の開発になるものといわれる。その後万治三年(一六六〇)幸手領地域の用水確保を目的に、関東代官伊奈忠克によって本川俣(現羽生市)の利根川から取水した新用水路が開発された。これを幸手用水と称す。

 幸手用水は羽生の東方を南流し、手子林村を経て篠崎村(現羽生市)でもとの利根川主流会野川故道に導かれ、東流して浅間川(古利根川)と会野川の合流点羽生領川口村(現加須市)に至る。ここで二派に分流され、一派は南東して幸手領北側用水となり、一派は川口圦から古利根川の河道を通って南流、葛飾郡上高野村(現幸手町)と埼玉郡吉羽村(現久喜市)との間に設けられた琵琶溜井に貯水され、ここから幸手領南側用水と中郷用水が引かれた。このほか溜井には余水流しの圦樋一艘が敷設されたが、これは中島用水を補う下流地域の重要な水源でもあった。

 宝永元年(一七〇四)七月、関東を襲った大暴風雨は各地に大被害をもたらしたが、松伏溜井や瓦曾根溜井の水源である中島用水路も復旧不能なまでの損傷をうけた。このため中島用水取水の各領村々は、中島用水路の模様替をしばしば幕府に訴えたが、幕府は富士山噴火被災地や、江戸下町水害地の復旧に追われてこれを渋り、この訴願が受理されたのは宝永五年のことであった。しかもその後も多額な費用を必要とすることを理由にこの施工はのばされていたが、享保四年(一七一九)関東代官伊奈忠逵により、上川俣の利根川に圦樋が敷設され、羽生領蓑沢村まで千間余の新水路が疏削され、幸手領用水路につなげられた。こうして水量をました幸手用水通り琵琶に圦樋が増設され下流領域の通水がはかられた。

 以来この用水は葛西用水と称され、幸手領・新方領・松伏領・二郷半領・八条領・谷古田領・淵江領・西葛西領、さらに享保十五年には東葛西上・下領が加わり、計一〇か領三〇〇か村、高一三万二七四四石余の農地灌漑に用いられる埼玉東部沖積地域最大の大用水となった。

 なお、庄内領中島村から幸手領八丁目(現春日部市〉までの中島用水故道は、享保十四年に埋立てられて新田に開発されている。また上川俣の新用水路も、地勢上適当な場所でなかったとみられ、利根川取水の元圦前には常に川洲が積り、用水の取水に支障が多かった。幕府はしばしば圦前の浚渫を施工したが効果なく、ついに宝暦年間(一七五一~六四)この用水路を廃止するに至った。したがって葛西用水の取水は、もっぱら万治三年成立の本川俣元圦から取入られていたのである。

琵琶溜井新堰枠