元禄期の越谷(昭和四十九年七月一日号)

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 元禄十六年(一七〇三)一月下総国結城の領主水野日向守勝長が城主格に列したので、勝長の本拠地結城に城を築くことになった。
 この検分役として、当時水野家の家老職にあった水野織部長福が日光街道を通り、小山から結城に入って城地を調査した。長福はこのときの往復路の紀行を「結城使行」と名づけて記録に残している。これによると長福は越ヶ谷の地を「誠に聞ふれし里の物ふりたるあわれ也」(本当に聞いていた通り越ヶ谷は風情あるひなびた里の趣がある)と評している。さて、同年二月七日に江戸を出発した長福は、草加を経て蒲生にさしかかったのが午過ぎであった。大河があったので何という川かと訪ねると、一人は〝あやし川〟といい、また一人は〝あやせ川〟とも答えた。

 綾瀬川を越えると道は右(出羽堀)も左(綾瀬川)も川の流れに沿っていてその趣きの深い所である。ただ溝川(出羽堀)の上に家を構えているのは危険に感じる。またここの名物だという焼米を道ばたで売っているのが珍しい。当村を人々は加茂村といっているが加茂村ではなく、蒲生村であるという者もいる、またなかには加茂と蒲生は一村の内の地名であるという者もいる。どちらが本当だろうか。

 板橋をこえると一里山がある、また小さな板橋をこすと、右に清蔵院という寺がある。河原曾根を過ぎると〝こしがへ〟はそこだという。駕籠の窓からのぞくと、左に木立に囲まれた弁才天の社があって神々しい。町の中には荒川という川があり清水がみなぎって勢いよく流れている。

  荒川や 氷をなかす 風の勢

 荒川の大橋をこすと、左の方に天神の宮があり、神楽の音がさわやかに聞えてくる。町はずれまでくると小橋があり、ここから遠く見渡すと越後路の山々(多分日光の山々であろう)の雪が春とは見えない程真白である。江戸から北に当る山々の雪が消えない内は、春はたとえ末になっても暖かくならないと古老が語ったという山々はこの山のことであろう。右の方には筑波の山も見える。道から左に折れた所に薬師堂がある。下間久里までくると、左の方は川で漁をする者が多い。川端の茶店はみなすのこ張である。夏はさぞ涼しかろうと言うと、土地の者が「その通り川は荒川の流れで水勢が強く、炎天でも夏の暑さを忘れて立ち止まる人が多い」と答えた。商売上手というかなにか意味ある言葉にとれて面白い。

  左保姫や 空はずかしき 下まくり

  上まくり はかまばかりや つくづくし

  上も下も まかり出るや 月花見

 長福は当時の越谷をこのように見ていた。今から二七三年前のことである。

  道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生

日光道中蒲生旧道附近の綾瀬川