瓦曽根河岸(その一)

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西方河岸のはじまり

 葛西用水路に利根川の水が入ったので、川辺の景観は水郷越谷の面目を取り戻したようである。人びとは、晩春の薫風に誘われ、満々とたたえられた川辺の堤につどいあい、憩いの一時を楽しくすごしている今日この頃である。

 江戸時代から明治にかけては、この葛西用水路その他見沼の代用水路などに水が入ると、待ちかねたように荷船が上り下りした。当時の舟運は、道中の人馬とともに、物資の重要な輸送機関であったのである。舟運には、道中に宿駅が設けられていたように、船の発着所である河岸場が処々に設けられていた。

 これら河岸場のうち、越谷地域でもっとも大きな河岸場は、葛西用水筋瓦曾根溜井の松土手(葛西用水と元荒川を区切る中土手)に設けられていた瓦曾根河岸であり、明治八年調査の『武蔵国郡村誌』によると、当時一〇〇石積高瀬船四艘、八〇石積似艜船四艘、二〇石積伝馬船一艘、それに川下小船一三艘を具えていた。
 しかし瓦曾根溜井には堰が設けられていたので葛西用水や元荒川の上流から運ばれてきた荷舟はここで積荷の積み替えをした。それでも越谷周辺村々の年貢米をはじめ商品荷物の多くはここからさかんに江戸へ積み出され、きわめて繁昌した河岸場の一つであった。

 この瓦曾根河岸は、もと松土手に設けられた河岸問屋の敷地七畝一五歩の地が、西方村の領分であったので西方河岸とよばれた。この河岸場敷地の所有者は、そのはじめ西方村の仁右衛門が畑地として名請した地であったのである。
 その後、瓦曾根村の住人公儀鳥見役(鷹場役人)中村藤右衛門がこれを買い受け、河岸畑とよんで所持していた。ところが藤右衛門は、職務の上で幕府の御咎めを蒙り、田畑屋敷欠所(没収)の申し渡しをうけたので、藤右衛門所持の河岸畑は西方村に返された。

 この藤右衛門には、おちかという娘がいたが、おちかは紀伊家の江戸屋敷に奉公中、針治医師の妻となり、当時江戸青山権田原町に住んでいた。
 おちかは、藤右衛門の欠所により、実家の名跡が失われるのを悲しみ、父藤右衛門が瓦曾根村に所持した高一〇石余の田畑屋敷と、西方村松土手の河岸畑を、おちかの妹である足立郡長右衛門新田の多七の妻とともに買い戻し、これを文治郎という名儀で所持した。

 なお、藤右衛門の名跡をつがなかったのは、藤右衛門が幕府から御答めにあった身であったので、これをはばかったのだという。享保八年(一七二三)、今から二五六年前のことである。

 こうして、父の所持地を買い戻したおちかは、このうち五畝一五歩の河岸畑を、瓦曾根村の中村新六に差配させた。

鳥文斉栄之画(瓦曾根溜井の図)