瓦曽根河岸(その二)

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瓦曾根河岸の成立

 河岸畑の差配人となった新六は、河岸を利用する荷船から河岸賃を取立てたが、そのかわり河岸畑に課せられた畑方年貢と、河岸場役料、合せて金一分を年々西方村に納めた。当時すでに松土手の河岸畑は河岸場として使用されていたのである。そして河岸場からあがる河岸賃の収益は、おちかの相続人寿泰と、長右衛門新田の多七、それに新六の三人で等分に分配された。

 その後安永二年(一七七二)、西方河岸の繁昌をみた瓦曾根村は西方河岸の近くの瓦曾根村敷地内に、〝上の河岸〟と名付けて新たに河岸場を開設した。新六は既得権の侵害であるとこれに抗議し、瓦曾根村を相手に訴訟を起こした。しかし江戸の寿泰や長右衛門新田の多七が協力しなかったので、訴訟の費用その他はすべて新六一人の負担で争論が続けられた。

 この間西方河岸は翌安永三年、幕府から運上金賦課の対象とされ河岸場船問屋運上金の名目で永六一八文が課せられるようになった。つまり西方河岸は幕府公認の河岸場としてその存在が公に認められたのである。やがて新六と瓦曾根村の争論は数年にわたって続けられたが、結局示談が成立し内済となった。示談の内容は、〝下河岸〟を称する西方河岸と、〝上河岸〟を称する瓦曾根河岸を合併し、同一支配人によって経営を行う。河岸場の収益金は、瓦曾根村が六割、新六方が四割の割合で配分する。ただし安永三年から賦課された西方河岸の運上金と、その入用金合わせて永八六八文、ならびに河岸場役金一分は、いままでどおり新六方で西方村へ納入するというとりきめであった。

 また長右衛門新田の多七と、江戸の寿泰は、西方河岸からあがる収益金配当の権利を新六に譲ったので、新議定による瓦曾根河岸場収益金四割の配当は、すべて新六が受取ることになった。

 一方河岸畑を含めた文治郎の名跡は、中村藤右衛門の縁者、江戸市ヶ谷に居住していた弥右衛門が継いで、瓦曾根村に移り住んでいた。この際、独身であった弥右衛門の介抱にあたったのは奉公人の半助であったが、その実直な人柄が認められ、弥右衛門の死後は半助がこの地の地守を勤めた。その後半助の子、七之助が寿泰の嫁の実家瓦曾根村五郎右衛門の娘を娶り、五郎右衛門の家名を継いで中屋五郎右衛門を称したが、文治郎の跡式をも同時に継ぐことになった。つまり西方河岸の差配人は中村新六であったが、河岸畑の所持者は当時中屋五郎右衛門であったのである。

 なお五郎右衛門は、日光道中の往還通りに家を建てて、茶屋稼ぎをするかたわら、瓦曾根溜井の見廻り役も務めたという。

中屋五郎右衛門の店の図