五人組

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 今年は町内会を単位とした盆踊り大会が盛んであった。「遠い親類より近くの他人」という言葉があるが、地域社会の特徴として、住民の意志が隣り近所に疏通され共同による行事が自治的に行われるのはきわめて自然である。戦後連合軍の指令によって、町内会・部落会の解散が命ぜられた。これは当時部落会・町内会が配給業務をはじめ戸籍業務など公共的な諸任務を遂行していたので、町内会・部落会の有力者は大きな力をもっており、選挙その他で日本の民主化に支障があると判断されたからである。

 こうした町内会などの地域組織は、戦時中とくにその組織の強化がはかられてきたが、遠くは江戸時代の五人組制度にさかのぼる。江戸時代の村は、五人組の集合体であるいわゆる生活共同体的な組織となっており、貢租その他あらゆる面で連帯責任を負って機能した。すなわち向う三軒両隣りは五人組に編成され、この中から罪人がでれば一同でその責を負ったし、貢租を滞納すれば五人組でこれを弁納しなければならなかった。その反面、養子縁組や質地・訴訟・遺言など一軒の家の進退には五人組が深く介入し、たとえ親類の要求があっても、五人組の同意がなければこれを行うことができなかった。

 今から二〇〇有余年前の宝暦十一年(一七六一)、西方村の百姓又右衛門は三反六畝二四歩の田畑屋敷を残らず質地に入れたまま病死した。このため又右衛門家は田畑屋敷を失って潰れ百姓になる破目にあったが、他家に嫁いでいた娘せんが又右衛門家の名跡がなくなることを残念に思い、質地残らず請戻して七三郎という奉公人に地守をさせた。

 その後何事もなく六年程経過したとき、又右衛門の後家妙栄と伜源次郎が相前後して死亡した。このため親類の与左衛門が跡継ぎがいないのを口実に又右衛門家の地所を引取ると五人組に申し出た。ところが妙栄の遺言には、又右衛門家の相続人がきまるまでは、五人組で又右衛門地を管理するよう依頼されていたので、五人組では与左衛門からの地所譲り証文の捺印を拒み、七三郎をそのまま地守として又右衛門家の経営にあたらせた。

 その後幾度が縁者による夫婦養子の話が持ちあがったが、五人組の同意が得られなかったりして、いずれも破談となり、実に一〇〇年を経た万延元年(一八六〇)当時でも、まだ又右衛門の名跡地は五人組の預り地になっていた。この間、又右衛門名跡の家や地所は親類などによって横領されようとしたが、そのつど五人組によって阻止され、相続人のきまらないまま又右衛門家の名跡は五人組によって守られてきたのである。

 このように江戸時代は、五人組の相互関係が深かっただけに「遠くの親類より近くの他人」という格言がここから生まれたのであろう、ともかく他人の干渉を排除する原則に立つ近代の相互関係のなかにあって、隣り近所の心の疏通まで失われている現在の世相は淋しいことである。

江戸時代の五人組帳