小林村の産社行事

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 現在でも越谷地域では、越巻中新田(新川町)をはじめ新暦一月あるいは二月に産社祭礼を執行している所がきわめて多い。江戸時代この産社祭礼は、村々の最も大切な年中行事で、この賄費用も大がかりなものであった。このうち小林村(現東越谷)の香取神社で行われる産社祭礼の費用は、高割といって土地の持高によってそれぞれ各家に割当て微収をしてきたという。

 ところが講中の人員が増大し、その負担が高持百姓に集中することから異論が生じ、文政五年(一八二二)正月、その費用の一部を除き人別割(人数割)平均に改められた。それとともに祭礼時の料理、献立や祭礼方法も古式にそって執行することが、議定によって再確認された。
 この議定書である式法帳によると、当時小林村の産社祭礼は正月七日が定日とされている。

 まず正月一日前後に甘酒を仕込み、正月六日に的・弓矢・頭渡し大根(当番者の交代のしるし)など祭礼入用の諸道具を一同で揃える。またこの日は座元(当番)の宿で、別当の神主(当時は寺院の僧が神官を兼務するのが普通であった)を招いてごちそうをし、その夜は産社講中一同も御神酒をいただいた。

 当日七日の朝は、女子供を含め講中一同赤飯で祭礼を祝い香取神社に参集する。拝殿には御神酒や赤飯・喰積台(白米、かちぐり、だいだい等を供えた台)それに生鯉や頭渡し大根を供える。
 お客として東福寺、観音寺の住職を中心にして小林村の二名の名主(村長)を正面に招き、その左右に羽織はかまの村役人がならぶ。
 この席の役者は何と言っても、亭主役としての頭屋(当番者)とその交代をする次の番の頭屋、それに的射に選ばれた七歳になる二名の童子である。

 古式にそって的射の童子の作法があり、その間神前に供えた鯉を料理、謡をうたい、定められた献立料理で酒盛りをする。そして最後に頭渡しの式を行い千秋楽を唄って祭礼は終了する。
 その後は寺などに立寄って遊ばず、早々に家に帰り、けんか等の間違いをおこさないことなどという注意もこの書に付加えられている。

 この式法帳の終りは

  千代八千代 香取の祭りまつのやと この小林のあらん限りは

の歌でしめくくられている。

 こうして村びと達は産社祭礼を五穀豊穣の予祝行事として執行すると共に、また村びとをあげての大きな娯楽行事としてこれを子々孫々に伝承させてきた。その伝承の面影を今でも残して執行している講中も少なくなかろう。

小林村祭礼式帳(準備される的の絵)