江戸時代越谷市の内砂原と後谷の両村は、元禄十一年(一六九八)から六ツ浦藩米倉丹後守の領分に組入れられた。米倉領になった両村のうち、砂原村では毎年新年には名主が年頭の挨拶として、畑で穫れたごぼうなどの土産物を江戸の米倉屋敷に献上するしきたりになっていた。
ところが享保九年(一七二四)正月、砂原村の百姓六左衛門は、こうした慣例に反対し争論となった。六左衛門の主張するところは土産物を領主に献上するのは、名主個人として上納すべきで、百姓一同が負担することはない。また新年のあいさつのためにわざわざ使用する送り迎えの馬、あるいは駕籠を村の負担で提供する必要はない。その他助郷伝馬勤の割当てが不当だという、村政の不信を箇条書に挙げていた。
しかしこのときの六左衛門の主張は村のしきたりや秩序を乱すものとして村内のなかで孤立し、その訴訟にも敗れた。そのうえ村内の申し合わせにより、以来村政には口だしできない隠居身分に位置づけられた。
ところが元文元年(一七三六)になると、村内の事情は大きく変り、六左衛門一件とほぼ同じ理由でありながら、今度は名主対惣百姓の出入訴訟に発展した。
この時は江戸宿(訴訟の取扱いをする江戸の宿屋)の仲介で、村役人の出張費用の規定その他の村財政に関するその使途などを明らかにすることで示談内済になった。
その後安永六年(一七七六)に再び名主対惣百姓の出入訴訟がおこり、村内の対立が激化した。この時も争いの焦点は主に村財政の合理化と、名主の特権に関するものが中心であった。
半年以上にわたって争われたこの訴訟は、同年九月米倉藩役所の裁許(判決)で一応けりがついた。この裁許内容は小前百姓層の要求を幾分満たすものであったが、村内の改革が期待できるものではなかった。
したがってその後も事あるごとに、古来からのしきたりと古い秩序を守ろうとする名主層と、合理的な改革を主張する小前百姓層との間に、争いは続けられていった。
こうした村内の抗争は、なにも砂原村のみの事でなく、多かれ少なかれほとんどの村々で、くりかえしくりかえし争われたものであった。その争論の度に村内の古いしきたりや村の秩序が少しづつ改められ、かつ幕府や領主の権力を背景にした名主の権威もつきくずされていった。
このなかで、越谷地域の名主の多くは中世来の土豪の系譜を引く有力者で、代々名主を世襲することが多かったので、古来からの慣例を改め、かつ名主の特権を弱める運動はいたって困難であった。しかし時代の移り変りや小前百姓の成長とともにこれらの旧習は村内のしばしばにわたる争論によって、改められていった。つまりこうした村内の対立抗争は、江戸時代における村内民主化運動として評価できるだろう。
