鮭と越谷(昭和五十二年八月一日号)

63~65 / 212ページ

原本の該当ページを見る

 現在世界各国は、漁類資源の保護という名目で、領海法のほか新たに二〇〇海里の漁業専管水域を設け水域内での他国の漁猟を規制しはじめた。このため遠洋漁業の盛んな日本はきびしい事態に直面しているが、ことに北洋に依存する我が国のさけ・ます・かになどの漁業は大きな打撃をうけている。

 ところで江戸時代さけは豊富で、産卵のため秋から冬にかけて日本各地の諸河川にもおびただしくさかのぼってきた。このうち利根川のさけ漁はことに著名であった。安政二年(一八五五)の成立とみられる下総国布川(現茨城県北相馬郡利根町)の医師赤松宗旦の『利根川国志』によると、利根川をさかのぼるさけのうち、布川あたりで獲れたさけは最も美味であるといっている。

 すなわち佐原あたりまでの鮭は、その身に塩分が残っていて味は劣る。また布川から上流になると、魚が長旅で疲れきり、その味も悪くなるというのである。このさけの漁法は大網・待網・打切・歩掛などという網を使うが、ヤスでついてとる方法もあり、これをヤスツキと呼んだ。このほか竹を籠にあんだヤライという漁法があったが、これを網代と称し利根川の名物であった。

 この網代については弘化四年(一八四七)平山光忠の『下総名所図絵』によると、銚子の川口から笹川の辺りにかけても春の彼岸から八十八夜の頃まで、すずき・黒鯛などをとるため、また秋の彼岸過ぎにはさけをとるため網代を仕掛けたという。この方法は川中に三メートル間隔ごとに杭を打ち、水底から一メートル程の水中に重し石をつけた藁縄の網を張る。魚はこの網にあたると網づたいにすき間を求めてついに袋網の中に入る。袋網の入口には鈴をつけた竹を差しこんでいるので魚が網に入ると鈴が鳴る。これを合図に網の口を締めて引上げ、すくい網でとるという仕掛けである。

 すでに松尾芭蕉による貞享四年(一六八七)の『鹿島紀行』の中に「既に暮かかる程に、利根川の畔、布佐といふ処に着く、この川にて鮭の網代といふ物巧みて、武江の市にひさぐ者あり」とあり、当時早くも網代を使ってさけをとり、これを江戸の市中に売っていたことが知れる。

 ところが利根川に仕掛けられた多くの網代によって川の流れが滞流し、このため水害を蒙ることを恐れた上流の農民の訴願により、天保二年(一八三一)、幕府は網代を全面的に禁止した。ここに利根川の名物が一つ消えるに至ったのである。ともかく利根川でとれたさけは江戸の人びとの食膳をさかんに賑わしていたが、越谷農民の口にまで入らなかったようである。越ヶ谷領砂原村松沢家文書などによると幕末期松沢家などで日常購入された魚類は、いわし・さんま・かつお・なまり・かつお節などであるが、干物が大部分を占めており、さけの買入れは見あたらない。当時さけは庶民には手がとどかない高級な食品の一つであったのかも知れない。

 その後さけは、底曳網などによる大量漁獲で、にしんとともに一般にも出回るようになった。そして、かつては「鮭は猫もまたいで通る」といわれるほどであったが、現在さけは再び庶民には手のとどかない魚になりつつある。

利根川網代の図