飯盛旅籠屋
江戸時代、街道筋宿場の旅籠屋などで道中の旅客に対し、特殊な接待をした女を「飯盛女」あるいは「食売女」と呼び、これらの女を抱えていた旅籠屋を「飯盛旅籠」または「食売旅籠」と称して一般の旅籠屋と区別していた。
日光道中第三次の越ヶ谷宿大沢町に飯盛旅籠屋が出現したのは、大沢町の旅籠屋藤屋伊兵衛が、寛文二年(一六六二)に飯盛女を抱えたのがはじまりといわれる。その後貞享年間(一六八四~八七)には、つた屋茂左衛門などが飯盛女を抱えはじめ、元禄十年(一六九七)には、六兵衛・庄兵衛・三郎右衛門・八右衛門・次郎兵衛・九兵衛・長左衛門・七郎右衛門・平三郎・勘兵衛の一〇名が飯盛旅籠屋を営んでいた。
もともと飯盛女は旅籠の飯炊き、あるいは旅人への飯盛給仕にあたった女であるが、遊女と紛らわしい所業が一般化したため、幕府は万治三年(一六六〇)、道中宿場で遊女行為を禁止した「箇条書」を発したが、その後も頻繁に飯盛女の禁止を通達してその取締りを強化した。ことに旅籠屋の飯炊き女が華美な服装をしていると、遊女まがいの所業にでる恐れがあるとして、下女らの衣服を麻か木綿類に規制したり、飯盛女抱置の人数を制限したりした。
それでも江戸の玄関口にあたる千住・板橋・内藤新宿・品川の四宿をはじめ、道中各宿の飯盛女は増加の一途をたどった。ことに東海道中品川宿では、明和元年(一七六四)に飯盛女の数が五〇〇人までと制限されたが、しばしばの取締りにもかかわらず、天保十五年(一八四四)の調査では一三四八人を数えたという。
同じく越ヶ谷宿大沢町の飯盛旅籠屋も追々その数を増していったが、文化年間(一八〇四~一八)には、大沢町下組を中心に二二軒を数え、飯盛女の数は一〇〇名以上に及んでいた。この間幕府の規制にかかわらず、過人数の飯盛女を置いていた、そばや長十郎・むさしや茂兵衛・かぎや又左衛門は、寛政二年(一七九〇)十二月、道中奉行根岸肥前守の下知によって逮捕され裁許(判決)の結果、「所払い」(追放)の厳刑に処せられている。この所払いに処せられると、家屋敷や財産は幕府によって没収され、飯盛女は親元に引渡される仕来りであった。
次いで文政八年(一八二五)五月、道中奉行石川主水正が飲盛旅籠屋取締り通達のなかで、「日光道中越ヶ谷宿のうち二二軒の大沢町の飯盛旅籠は、銘々飯盛女を過人数抱え夜になると表見世先にならんで客を誘い、あるいは奥座敷で三味線や太鼓など音曲を催したりしている。このうち弥兵衛・政右衛門・伝吉・弥平太.伊勢屋という者がとくに不坪である」として代官伊奈半左衛門にその取締り方を命じている。
これに対し伊奈半左衛門は、「飯盛旅籠を厳重に取締ると宿場の経営は行き詰まって潰れてしまい、御用通行に差支えることになる。そこで今まで通り二名宛の飯盛女を置くことを認めてほしい」と上申し、これが許されている。
すなわち公用通行者が休泊する御用宿の不足銭や関東取締出役の休泊賄い、それに臨時の宿場入用金などその多くを飯盛旅籠屋が負担しており、いわば宿場財政のうえからは多額納税者であったからである。