大沢町の飯盛旅籠と飯盛女(その二)

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飯盛旅籠の取締り

 ところが大沢町では、この二人宛許された飯盛女抱置きを、大沢町惣旅籠屋五八軒に二人宛と曲解し、過人数の飯盛女を名目上他の旅籠屋などに名義を移して営業を続けていた。この戸籍登録の不正一件は、宗門人別帳(戸籍帳〉の調査によって発覚するところとなり、一件は奉行所吟味のうえ、文政十二年八月裁許(判沢)の申渡しがあった。このときは人別帳の不正書入れを行った旅籠屋三五人、違反行為を黙認していた大沢町の問屋・名主・年寄それぞれが、銭五貫文などの罰金刑に処せられた。

 その後天保十二年(一八四一)九月にも道中奉行佐橋長門守の下知により、大沢町に出張した関東取締出役によって、飯盛女を多数抱えていた柏屋伝四郎・庄内屋茂助・竹屋久左衛門・中屋伊八の四名が逮捕され、奉行所の吟味をうけていた。

 このように飯盛旅籠は、幕府によってしばしば取締りをうけ、そのつどきびしい規制をうけていたが、幕府でも宿場保護の立場から徹底的にこれを取締って消滅させることはできなかった。

 一方、飯盛旅籠に抱えられた飯盛女の多くは、年季奉公という形式で雇われたり、あるいは養女という形で抱えられたが、いずれも金で買われていく貧困家庭の妻か娘たちであった。その出身地は主に農村であったが、大沢町の飯盛女は享保年間(一七一六~一七三六)までは江戸の女が多かった。その名前も〃さん〃とか〃りん〃といった同名の者が多く紛らわしかったので、この頃から〃こもん〃〃こまつ〃といった源氏名がつけられるようになったという。

 その後大沢町の飯盛女は、ほとんどが越後の女によって占められるようになったが、これには専門の人買い業者が介在していたようである。たとえば天保五年(一八三四〉三月、大沢町店借り(借家)宗助が、越後から五人の飯盛奉公人をともなって半年ぶりに大沢へ帰っている。これら飯盛女は抱え主がきまると店に出されるが、その玉代は古い年代には一人あたり銭二〇〇文であった。これが享保期には銭三〇〇文となり、天保年間(一八三〇~四四)には銭四~五〇〇文、幕末から明治にかけては金一朱から二朱が平均相場であった。この飯盛女の多くは当初借りた身代金の高利な利息が雪だるま式に嵩み、生涯苦界から脱けでることができなかったが、なかには身請けされて家庭の妻におさまる女もいないではなかった。文政元年(一八一八)、草加宿飯盛旅籠屋の奉公人〃なお〃は、吉川村の喜八に身請けされて喜八の妻になっている。

 ところが〃なお〃は飯盛女奉公中、大沢町の旅籠屋長八と馴染の間柄であり、長八は〃なお〃が身請けされたと知ると〃なお〃を妻に譲ってくれるよう再三喜八に掛け合った。しかしこれを断わられると〃なお〃を誘いだそうと画策したがこれも失敗、あげくの果てに無宿の勘蔵そのほか数名の者をともなって喜八方を襲ったが、恰度喜八方に居合わせた神田山本町の医師元碩などと乱闘となり、元碩は長八などのため殺害された。この刃傷一件は、下手人長八などの行方が不明のまま吟味が進められ、喧嘩沙汰として裁許の申渡しがあった。このときは一件の首謀者長八は追放処分をうけ、長八の家財道具は幕府に没収されて入札処分に付されたが、喜八と〃なお〃はお構いなし(無罪)として放免された。

元禄年中大沢町飯盛女の風姿(国会図書館蔵)