飯盛女の哀話
こうして長八一件は落着したかにみえたが、それから間もない同年九月、大沢町飯盛旅籠屋弥兵衛方の飯盛奉公人〃まん〃が欠落して、大吉村百姓斉次郎方に身を寄せる一件が突発した。〃まん〃をかくまった斉次郎は弥兵衛の追跡を恐れ、弥十郎村(現弥栄町)の百姓忠右衛門方に〃まん〃とともに身を潜めていた。
しかしこれを探りだしたのが吉川村刃傷一件で追放処分をうけた長八であり、長八は〃まん〃の隠れ家を弥兵衛方に密告した。弥兵衛は〃まん〃を連れ戻すため早速数名の者を引連れ、長八の案内で忠右衛門方を襲った。忠右衛門は留守であったが、抵抗する〃まん〃に弥兵衛は脇差を抜いて威嚇した。このとき斉次郎は弥兵衛の暴行を恐れて逃げ去ったが、〃まん〃をかばった忠右衛門の妻〃みよ〃は弥兵衛の脇差をうけて傷を負い倒れた。この騒ぎにお尋ね者の長八は身の危険を感じてその場から再び逃亡したが、〃まん〃は弥兵衛に捕えられて大沢町に連れ戻された。
一方騒ぎのあと自宅に戻った忠右衛門は、妻の〃みよ〃が弥兵衛のため傷を負わされたことに怒り、これを代官吉岡次郎右衛門役所に訴えでた。表沙汰になることを恐れた一件の関係者は調停人を仲に立て弥兵衛方から金一〇両、斉次郎方から金五両、合計金一五両を出金し、これを〃みよ〃の治療代にあてることで示談内済にすませようとした。ところがこの内済の旨を代官役所に届出たところ、すでに代官所では追放処分の長八がその場に居合わせていたことを内偵しており、内済を棄却して一件を勘定奉行土屋紀伊守役所へ起訴処分とした。一件は奉行所で吟味のうえ、同年十月裁許の申渡しがあった。この申渡しによると、弥兵衛は、お尋ね者の長八が弥兵衛方に立廻ったのを届けず、しかも〃まん〃を連れ戻すため〃みよ〃に傷を負わせたのは不埓であるとして手鎖の罰、斉次郎は弥兵衛が忠右衛門方に踏みこんだとき、いち早くその場を逃げさり、〃みよ〃が傷をうける結果を招いたのは不埓であるとして同じく手鎖の刑、〃まん〃を連れ戻すために同行した四人の者は、弥兵衛の乱暴を制止しようとせず、これを傍観していたのは不埓であるとして急度御叱りの罰、〃まん〃は年季奉公中斉次郎のもとに欠落し、一件をひき起したのは許しがたいとして同じく急度御叱りの罰、〃みよ〃と忠右衛門はお構いなし、という申渡しであった。欠落に失敗して連れ戻された〃まん〃のその後の消息は不明であるが、辛く悲しい日々であったことは想像できる。
借金のため極度に身の自由を束縛されている飯盛女の欠落は、決して珍しいことではなかったが、欠落の至難なことを知り、馴染の客と相対死(心中)する者も当時は少なくなかった。文化五年(一八〇八)五月、東海道川崎宿の旅籠屋甚兵衛抱え飯盛女〃いそ〃は、かねて馴染の武州高畑村(現日野市高幡)百姓伊助と相対死をはかり、〃いそ〃は伊助の手で深傷を負わされたが店の者に発見され、自刃に失敗した伊助は入牢、〃いそ〃は傷がもとで死亡した。ところが伊助は一件吟味中、〃いそ〃と酒狂のうえ口論となり、〃いそ〃に疵を負わせたもので、相対死をはかったものでないと主張、抱え主甚兵衛と示談のうえ無罪放免になっている。これも飯盛女の悲しい運命の一例であろう。これらも貧困が原因の運命であり、身代借金がいかに恐ろしいものであったかは、現在でも決して変りはない。