本年も梅雨の季節を迎えた。この梅雨を旧暦では五月雨と称し、梅雨の晴れ間を特に五月晴といったが、五月晴とは稀に輝き渡る太陽の光をことさら有難く感じた讃美の称であったろう。
この梅雨時には晴れ間もあるが、また集中豪雨もつきもので、大きな洪水被害を出すことも珍しくなかった。ことに越谷周辺の沖積底地には、古利根川、荒川、綾瀬川、庄内古川、江戸川の諸河川が集流したので、これら諸河川の氾濫によって水害を受けることが多かった。このうち台風による洪水のほか、梅雨時の集中豪雨による水害も少なくなかった。宝永元年(一七〇四)の関東洪水もその一つである。
宝永元年の関東洪水
この時は江戸川の大増水で猿ケ俣(現葛飾区水元町)の堤防が決潰し、葛西をはじめ江戸下町一帯の大水害を招いた。当時、古利根川は猿ケ俣から小合川(旧小合溜井筋)に東流し、小向(現三郷市)と金町(現葛飾区)の間から江戸川に落とされていた。この為江戸川洪水時には、江戸川の激流が古利根川に逆流し、その曲流地点の猿ケ俣堤防がその衡激地点に当っていたのである。幕府はこの猿ケ俣堤防の決潰を契機に翌二年、古利根川の落口を現在の中川筋に付替えて、中川通り亀有に亀有溜井を造成している。
宝暦七年の関東洪水
宝暦七年(一七五七)、この年は旧暦四月中旬頃から長雨が降り続き、ことに五月一日から六日までは北東の強風と共に昼夜にわたって水桶をまけたような大雨が続いた。この連日にわたる大雨で、下野国の山間部では土砂なだれの為山麓の地が埋没、場所によっては人馬の被害を出した所もある。
また利根川通りでは、川俣(現羽生市)の堤防などが決潰し、利根川の激流が武蔵東部沖積底地に押出されたがこの時は広い範囲にわたって水が押し出された為、人家の被害は比較的少なかったという。当地域では、この押水によって、古利根川が増水し、古利根川と元荒川にはさまれた新方領の耕地は残らず水冠りとなり、植付間もない稲などに被害がでた。
一方、憂慮された元荒川の増水は緩漫であったので、当初元荒川通り右岸の地には、水はあがらなかった。そこで同川通り右岸の農民は、五月七日に雨があがったのを幸い、朝早くから田の草取りに耕地へ出向いた。このうち西方村(現相模町)の人びとは、耕地についたとたん、上手耕地の彼方から、怒濤のような大水が耕地一円に押し寄せてくるのを見て仰天した。この押水は、綾瀬川の上流上瓦葺村(現上尾市)の綾瀬川に架けられた見沼代用水掛渡樋の決潰によるものであり、見沼代用水の激流を受けた綾瀬川の堤防は各所で破堤、一拠に沿岸耕地に水が押し出された。
西方村の農民はこの押水のすさまじい勢いに、寝耳に水としばらくは茫然としていたが、急ぎとってかえし、家宅の床上げ作業をして浸水に備えるとともに、村中惣出の水防作業にとりかかった。西方村などにおいては、この綾瀬川からの押水にはまず谷古田用水路と西葛西用水路の堤防を補強して水を防ぐ必要があった。そこでこれら堤防には老幼男女が馳せ集まり、土俵の積上げ作業などに必至と取りくんだがこの土俵の数は一六〇〇俵に及んだという。
この間綾瀬川通りの村々は、自らの村を守るため要所要所に水止め堤を築いて上流からの押水を防いだが、洪水を受けた上流地域の村々は、この水を押し流そうとして、一千人に及ぶ集団が下流地域の水止堤を切り割りながら南進してきた。
