集中豪雨と水害(その二)

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 このため水止め堤の切り割りを実力で阻止しようとする下流村々との切り割り騒動が各所で発生した。この情報に接した西方村では伊原村と協同して水防所を設け、警報を発し次第人びとが駆付ける手筈を整えていたが、当地域まではこの騒動は波及しなかった。
 なおこの関東の集中豪雨で、主要な街道往来が一時途絶したため、この被害情報が確認できず、江戸市場では穀物相場が立てられなかった。越ヶ谷町の市相場でも、五月二日に金一両で米八斗九升の取引値段が、五月十七日には情報の未確認から米七斗まで急騰したが、その後洪水被害がその割には軽くすんだという情報が確認され、米値段はもとに復したという。

天明六年の関東洪水

 天明年間(一七八一~八九)は、信州浅間山の大爆発、東北関東の大冷害や大水など、ことに天災の重なった年間であった。このうち天明六年七月の関東洪水は、「古老の申し伝えにもない」未曾有の大洪水であったという。この間の様子を『武江年表』でみると「七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水と成れり、(中略)小塚原は水五尺もあるべし、千住大橋往来留まり掃部宿軒迄水あり、本所深川は家屋を流す、平井・受地辺水一丈三尺と云」と記されている。

 また『浚明院殿御実記』では、「竪川・逆井・葛西・松戸、利根川のあたり、草加・越谷・粕壁・栗橋の宿駅までも、ただ海のごとく淼々としてわかず、岡は没して洲となり、瀬は変じて淵となりぬ、この災にかかりて屋舎・衣食・財用をうしなひ親子兄弟ひきわかれて、ただ神社堂宇などの少したかき所をもとめ、からき命をたすかり」などとある。これをまた西方村の「旧記」でみると、次の通りである。

「旧記」にみる水害の状況

 すなわち当年は六月からは日照り続きで、豊作が予想された。七月十二日も朝から雲一つない快晴であったので、収穫の終った豆類の土用干をしていたところ、昼頃から俄に西北の空から雷鳴がとどろき、大雨が降り出した。人びとは「よいおしめり」だと喜んでいたが、この大雨は十三・十四・十五・十六日と降り続き、関東の諸河川は満水状態になった。そして翌十七日には上瓦葺村の見沼代用水掛渡樋が押流され、綾瀬川通りは見沼代用水筋からの押水で洪水に見舞われた。

 西方村はじめ八条領村々は西葛西用水路の堤防を補強して綾瀬川からの押水を防いだが、同日の夜になると、利根川通り堤防が各所で決潰、幸手領・庄内領・松伏領・新方領は一円湖と化した。このため元荒川の水位は一拠に二尺余も高くなり、忽ち堤防を惣越して八条領側の集落や耕地にも溢流しだした。必至と水防に務めていた人びとはこれをみて水防作業をあきらめ、水丈けの深くなった道を家に逃げ帰ったが、このときは家屋敷はすべて水中に没していた。このとき西方村で水のあがらなかったのは大相模の不動尊境内だけであり、人びとの多くは不動尊境内に避難したが、十日間は耕地の水が引かなかったという。

 その後江戸期はもちろん明治・大正・昭和となお水害は絶えなかったが、そのつど利根川・荒川などの改修が施工され放水路などが造成された。ことに戦後河川の綜合開発の一環として、それぞれの上流にダムが造成され、発電に利用されるとともに、流量の調節がはかられたので、以前のような洪水の心配は少なくなった。しかし局地的な集中豪雨には今でも被害が続出している。これは遊水池の機能をもった田畑の潰廃や、河川敷の住宅進出にも一因はある。同時にダムの決潰による大洪水の心配は今後決してないとは誰しもが保障できない。このときは天明六年の大水害を上まわる被害を覚悟せねばならぬであろう。

中島橋より元荒川を望む